悪魔からの誘惑 ルカによる福音書4章1-4節 2016年7月3日礼拝説教

イエスは活動の開始にあたって、霊の導きによりヨルダン川でヨハネからバプテスマを受け、霊の導きにより荒野で悪魔から誘惑を受けました。この二つの出来事が、密接な関係を持っていることを、マルコ・マタイ・ルカの三つの福音書は共有しています(マルコ1章12-13節、マタイ4章1-11節)。マルコを元にした、この三つの福音書を「共観福音書」とも呼びます。共有している内容が多いからです。ヨハネ福音書だけが独自路線を貫いています。

さて、マタイとルカにだけあって、マルコに無い記事もあります。これもただの偶然では説明しにくい現象です。学者たちは、マタイとルカが共有していた「共通の言い伝え」があったと推測しています。その言い伝えが、統一的な一冊の本のかたちをとっていたか、それとも雑然とばらばらに存在していたかは、議論が分かれ未決のままです。

今日の箇所は複雑です。確かにマタイとルカは、荒野の誘惑について、マルコも参考にしています。その一方で、マルコに比べて、マタイとルカは非常に詳しく「悪魔からの三つの誘惑」の内容を記します。しかも内容的に両者がほとんど一致しているのです。偶然ではなく、マルコの知らない言い伝えをも、マタイとルカは目の前に見ながら、それぞれ自分の福音書を書き進めています。福音書の執筆は、編纂作業です。切ったり貼ったり、縮めたり膨らませたり、選んだり捨てたりは、編集者の権限・読者の志向によります。

わたしたちはルカ福音書を読み進めています。だからマルコ福音書と、マタイ・ルカ共通の言い伝えの二種類を手にして編纂しているルカの考えや、ルカ福音書の読者の考えを尊重しながら、解釈をしていく必要があります。具体的には、マルコ福音書およびマタイ福音書との比較の中で、ルカに特徴的な主張が浮かび上がってきます。

ルカ福音書の特徴は、孤独の強調です。すべての人は神の子ですが(3章38節)、神の子というものは個人として生きる存在です。マルコ1章13節を見ると、イエスは荒野で四十日間サタンから誘惑を受けている間、動物たちや天使たちと一緒に居ます。ちなみに断食もしていないのですが、いずれにせよ孤独な闘いではないというのがマルコの考えです。

マタイは動物たちを削りますが、天使たちが誘惑の後に登場します(マタイ4章11節)。マタイが天使を登場させるのはマルコの影響です。悪魔からの誘惑はイエスだけの闘いとなり、孤独感を強めています。

同じマルコを見ながらも、ルカはさらにマタイを超えて、天使も登場させません。イエスはただ一人で悪魔と対峙します。神の子は孤独な存在だからです。今までもルカは、ただ一人神殿に残った少年イエスの逸話を書き記しています(2章41-52節)。もちろんバプテスマも個人の決断に従い個人単位で受ける儀式です(3章21節)。だから荒野の修道生活も、ただ一人で経験しなくてはいけません。イエスがヨハネから継承したもの、またはイエスとヨハネに共通することは、この個人主義です。

独りきりで考えることは重要です。そのような時間は貴重です。自分自身の貧しい経験からも言えます。福岡の神学生時代は寮の仲間に囲まれ、福岡や北九州地方連合の多くの教会の先輩牧師たちにも囲まれ、そこで揉まれて学びました。わたしの最初の赴任地は松本蟻ケ崎キリスト教会。当時長野県で唯一の日本バプテスト連盟の教会でした。隣の教会は100キロ先の山梨バプテスト教会です。誰にも相談せず一人で考え、学び、祈り、実行することが当たり前になりました。その時に共同で論じ合ったことがらが逆に生きてきました。人間は、「共に」と「独り」の循環によって生きるものです。孤独に耐える精神力なしに、共に生きる力は養われないように思います。

さて「四十日」には象徴的な意味があります。神の定めた十分に長い期間という意味で、聖書の中では四十日がしばしば登場します(創世記7章4節)。そして最も参考になるのが、預言者エリヤが独りで逃げて山に篭った期間が四十日四十夜です(列王記上19章8節)。エリヤはただ一人神と出会います。そして新しい使命を与えられて、山を降りていくのです。

だから、「悪魔から誘惑を受ける」という表現は、結局、「神の前で自分の欲があぶり出され、その欲望と闘う」という事態を神話的に語っているのです。三つの欲望が典型的な例として浮かび上がり、それらと葛藤しなくては、新しい使命を生きることができないということでしょう。

純粋な唯一神教にとって、悪魔という存在は矛盾に満ちています。とても多神教的だからです。天使や聖人もそうです。つまり、「悪魔」は古代人の表現です。現代でも、「悪魔のささやき」や「魔が差した」という言い方がありますが、自分の欲望との間の葛藤を指していることは、言うまでもありません。「罪」と言ってもかまいません。「悪魔」という実体は無く、人間には罪があり、正しい神の前でそれがあばかれるのです。あばかれることはとても大切であり、そのために一人になる必要があります。

ルカはこの悪魔を文学上の技巧として用います。4章13節で「時が来るまでイエスを離れた」悪魔は、22章3節でイスカリオテのユダに入ります。この仕掛けはルカ福音書だけにあります。イエスの活動期間中、イエスは三つの誘惑に完全に打ち勝っており、悪魔の働く隙間はありませんでした。しかし、十字架での処刑が執り行われた期間は、誘惑に負けた者たちが支配する時間だったのです。

ユダが犯した罪や、ユダが負けてしまった誘惑と、イエスが受けた三つの誘惑は深く関わっています。ルカの意図に従い、ユダをヒントに誘惑を一つずつ読み解きたいと思います。

石をパンにしたいという誘惑は、強欲・食べ過ぎの問題です。ユダはイエスを祭司長たちに引渡し、相当のお金を手に入れました(22章5節)。銀貨30枚以上かもしれません(マタイ26章15節参照)。マタイはイエスの死刑判決直後の「ユダの自死」を報告しますが(同27章3-10節)、ルカはイエスの死後ある程度の期間が経ってからの「ユダの転落死」を語ります。ルカによればユダは、エルサレムに「不正を働いて得た報酬で土地を買った」ようです(使徒言行録1章18節)。それはイエスを引き渡した際の報酬でしょう。他殺かもしれませんが、ユダはその土地に落ちて(つまり土地建物付きの物件だった)死にます。この書きぶりはユダの強欲を批判しています。

他にもユダの強欲ぶりを示す逸話はあります(ヨハネ12章1-8節)。ユダはイエスと行動を共にし、仲間からも信頼されて、神の国運動の会計担当者でした。ガリラヤから始まり、エルサレムまでの放浪の旅は、ユダの切り盛り・裏方の働きなしにはできませんでした。しかし、彼は欲望に負け、誰にも見えないところでは「その中身をごまかし」横領をしていたのでした(同6節)。浄財として神の国運動のためにささげられたお金を、自分のポケットに入れて蓄えていたということです。

ユダほどパンの重要性を知っていた人はいなかったことでしょう。イエスの仲間たちは、常に飢えていたと思います。定住の支援者たちのところをオアシスとして、一行は野宿生活をしていたのですから。旅の途中イエスのファンが一万人以上集まった時も、全員を賄う200デナリというお金が無かったと言われるほどです(ヨハネ6章7節)。「わたしたちに必要なパンを毎日与えてください」(ルカ11章3節)は、失業者の集まりであるイエスの仲間たちにとって切実な祈りでした。会計担当のユダは、石を見ながら、「この石がパンに変わってくれたら」と常に思っていたに違いありません。最初は仲間を食わせるという責任感から、しかし段々と自分の欲望として。

飢餓体験は、人間にとって非常に危険なものです。裏返って、強欲な人を生むことがあるからです。苦労をした人が必ずしも良い人になるとは限りません。世間から浴びた苦労が、隣人に対する意地悪や、自分の強欲に裏返る人もいるからです。

ユダに起こったことも似ています。ユダはイエスに心酔し、イエスの弟子になり、弟子仲間の中でも出世し、まさにそれだからこそ、「パンだけで生きる」人生に裏返ってしまった、私利私欲のみに生きる生き方を選んでしまいました。さんざん苦労を重ねた放浪の旅は、ユダに、「横領のお金とイエスを売り渡すお金とを足し合わせて、首都エルサレムで庭付き一戸建て住宅を得る」という悪夢を与えました。それを悪魔の誘惑に負けることと、ルカは語っています。生きるためにパンは重要です。しかしパンだけで生きることは問題です。石をパンに変えて満腹するのではなく、パンを分け合って給仕することが大切です(22章24-30節)。

「人はパンだけで生きるものではない」という教えは、今日、三つのことをわたしたちに教えています。一つは、飢餓そのものが罪であるということです。ユダに起こることはすべての人に起こります。だから、石を睨みながらパンを欲する人を一人も出してはいけません。飢えている人は、その不満を罪のない人にも向けさせられるように仕向けられやすいのです。

セカンドハーベストという運動があります。コンビニやスーパーなどで廃棄されるべき食べ物を、貧しい人びとに分け与えるという活動です。6人に1人が貧しい人であるわたしたちの国に必要な政策です。そして、この発想が南北問題に示唆を与えます。餓死する人がいる一方で、栄養過多に悩む人がいるという不均衡を正す努力が必要でしょう。

二つ目に、「石をパンに変える錬金術のような商売」の問題です。たとえば遺伝子組み換え技術を応用した農業です。品質改良の枠内に入っているでしょうか。しばしば人体への危険ばかりが論点とされますが、種を超えることは生命倫理(神の領域)に触れるように思えます。そこまでしてパンを得なくても良いという抑制さも必要です。しかも上手く分配すれば地球上のパンは足りているのですから。

三つ目に、経済中心主義の問題です。「参院選の争点はアベノミクス。景気回復、この道しかない」に対して、「人はパンだけで生きるものではない」と言いたいものです。「選挙の時だけ経済を前に出して、選挙後には乱暴な人権抑制の法整備」という手法に、いつまでも騙されてはいけないでしょう。騙されがちな理由は、わたしたちが「パンのみで生きる強欲」から抜け出していないことにあります。だから真に強欲な者の悪魔性を見抜けないのです。

今日の小さな生き方の提案は、「共に」と「独り」の良い循環を作り出すこと、それによって強欲から解放されていくことにあります。わたしたちは教会で共に抑制的にひとかけらのパンを取ります。そしてわたしたちは孤独な個人の生活に戻ります。そこは経済中心主義の支配する、誘惑の多い荒野です。荒野で信仰を貫くことは困難な道ですが、本質的です。正にそのために週に一度わたしたちは集まっているからです。独りで居るところで、自分の強欲に打ち勝ちましょう。パンを分け合う世界を創りましょう。