新しいこと 民数記16章23-35節 2024年4月14日礼拝説教

 前回までのおさらいをいたします。出エジプトの旅の途中のこと、ミリアム・アロン・モーセ姉弟の従兄弟であるコラ(レビ部族)、そしてダタンとアビラムの兄弟とオン(ルベン部族)、この四人が反乱を起こしました。モーセたちは、まずコラと話をします(4節以下)。コラの反乱の理由は従兄弟である大祭司アロンに対する嫉妬のようでした。次にモーセたちはダタンとアビラムを呼びましたが、この二人は来ません(12節以下。オンについては謎です)。ダタンとアビラムの反乱の理由は、権威主義にあるようでした。彼らは長男の部族であるルベン部族の権威を、振るいたかったのです。四人に同調する二百五十人がヤハウェの会見の幕屋の前に集まります(19節)。その最中、ヤハウェ(「主」と訳されます)の神は命令をモーセに下します。

23 そしてヤハウェはモーセに向かって語った。曰く、 24 「貴男はその会衆に向かって語れ。曰く、『貴男らは、コラ、ダタン、そしてアビラムの宿り場の周りから、互いに上がれ/上げられよ/自身を上げよ。』」 

 互いに上がれ/上げられよ/自身を上げよ」(24節)という命令は、意味が分かりにくいのですが、これで直訳です。三通り(相互行為/受け身/再帰)の翻訳可能性があり、多くの翻訳は「自身を上げよ」を採り、「離れよ」「引き揚げよ」「退け」などと意訳しています。個人的には、相互行為「互いに上がれ」がより良いと思います。つまり神は、民に話し合うことを勧めていると採るのです。24節の「その会衆」は、イスラエル全員のことを指すと考えます。「上がる」という言葉は宗教的な意味合いを持っています。香りや煙が供え物として天に上がり、神がそれを嗅ぐという考え方があったからです。

 神の望みは、隣人同士よく話し合って罪の深みから上がって行くことです。それは宗教的な向上心です。人と比較しやきもちを焼くという罪、人をおとしめ威張りたがるという罪、これらの具体的な落とし穴から協力し合って這い上がることが求められています。そして高みを目指して「主の山に登ろう」とすることが、信仰共同体の務めです。

 「宿り場」(24・27節)は、通例神が宿る場所を指す言葉(ミシュカーン)です。あえて神のための言葉を、コラ・ダタン・アビラムの天幕に用いています。神の名のもとに罪を犯すことがありうるということの警告がここに示されているように思えます。あるいは民の迷いをも示しているのでしょう。「コラ・ダタン・アビラムと共に神が宿っている」と、相当数の人が錯覚を犯していたのだと思います。神はどこに宿っているのか、神の意志はどこにあるのか、よく話し合って考えなくてはいけません。最も神がおられそうな場所に神はおられないことがあるからです。悪魔は悪魔のように現れません。天使の装いで現れるものです。陥りがちな心理的落とし穴からわたしたちは共に上がって行くべきなのです。

25 そしてモーセは起きた。そして彼はダタンとアビラムに向かって歩いた。そして彼の後ろにイスラエルの長老たちが歩いた。 26 そして彼はその会衆に向かって語った。曰く、「どうか貴男らは、これらの悪意ある男性たちの天幕に接するところから逃げてほしい。そして貴男らは、彼らに属するすべてに触らないでほしい。貴男らが、彼らの罪のすべてでもって拭い去られないように。」 27 そして彼らは、コラ、ダタン、そしてアビラムの宿り場の上から・周りから、互いに上がった。そしてダタンとアビラム、また彼らの妻たちと彼らの息子たちと彼らの乳児たちは、彼らの天幕の入り口(に)立ち尽くしながら、出た。 

モーセは「ダタンとアビラム」(25節)の天幕にだけ向かいます。コラの天幕に向かわなかった理由は意味深です。コラがモーセと長老たちと共に歩いたからかもしれません。コラと二百五十人の仲間がすでに会見の幕屋に集まっているからかもしれません。そもそも反乱の首謀者コラはどこにいるのでしょうか。本文は曖昧です。実はコラが死んだかどうかさえ明記していません。このことは後でとりあげます。モーセは、ダタンとアビラムの天幕の周りにいる人々にだけ、ヤハウェの言葉を伝え、避難の指示をしました。

モーセの後ろに「長老たち」(25節)がついてきます。シナイ山に一緒に登って神の前で食事をした長老たちでしょうか。ヤハウェの霊を宿した長老たちでしょうか。全部族の代表であるこの人々はダタンとアビラムの天幕の周りに集まっている人々の事を心配しています。そして切々と訴えます。「どうか逃げてほしい。悪意ある者たちから離れ、比較すること、威張ること、支配欲という罪から離れて欲しい。一緒に主の山に登ろう」と諄々と説くのです。人々は、自分たちのためにわざわざ来てくれた指導者たちに敬意を表し、ダタンとアビラムの偽「宿り場」の周りから「互いに上がった」のでした。ダタンとアビラム、彼らの妻たち、また息子たち、さらには孫でしょうか乳児たちは、その天幕の入り口に立ち尽くします。古代の世界、夫・父・祖父が、妻たちや子どもたち孫たちを「所有」していたので、嫌でも共にいなくてはいけなかったのです。

28 そしてモーセは言った。「このことでもって貴男らはヤハウェがこれらの全仕事をなすためにわたしを遣わしたことを知る。実にわたしの心から(出たもの)ではなく。 29 もし全人間〔アダム〕のようにこれらの男性たちが死ぬのであれば、そして(もし)全人間〔アダム〕に訪れることが彼らの上に訪れるのならば、ヤハウェはわたしを遣わさなかったのだ。 30 そしてもし創造(的事を)ヤハウェが創造するのならば、そして(もし)その地〔アダマー:女性名詞〕が彼女の口を開けるならば、そして(もし)彼女は彼らと彼らに属する全てを呑むならば、そして(もし)生命たちが冥府へ降るならば、貴男らはこれらの男性たちがヤハウェを侮ったということを知る。」 

 モーセの言葉には語呂合わせがあります。「人間〔アダム〕」(29・32節)と、「〔アダマー〕」(30・31節)です。旧約聖書の冒頭にある創世記2-4章には人間の罪というものが物語られています。それは神を裏切る罪、隣人に罪をかぶせる罪、隣人と比較をして嫉妬し怒り殺す罪、神をも畏れぬ傲慢の罪です。それらは最初の人間アダムがアダマー(土)からつくられことと、人間アダムが死んだならばアダマー(土)へと帰らなくてはならないことに関係づけられています。人は罪深く弱い存在です。限られた人生の中で、神や隣人と信頼関係を結んで豊かに生きることをしないならば、わたしたちの人生はむなしいものです。通常の死でさえ侘しさを醸しています。

 全人間に平等に訪れる死と異なり、生命が冥府に直接行くことは、罪の大きさを象徴する奇跡です。この恐ろしい出来事をモーセは「創造(的事を)ヤハウェが創造する」と表現しています(30節)。とても肯定的な表現にたじろぎます。そこでギリシャ語訳聖書もサマリア人たちの聖書も、意味を通りやすくしています。しかし原文は非常に急進的です。生きている者たちが冥府に行くという出来事、すなわち神の裁きを神の創造の業と言っているのです。確かに人間の裁判においても、新しい事態が切り開かれ社会が新たに形成されるのですから、裁きは創造の御業とも言えます。「創造する」という動詞の別の用法は「切り刻む」です。何かを切らなくては新しい何かは生まれません。

31 そして以下のことが起きた。彼がこれらの言葉を語り終えた時に彼らの下の地〔アダマー〕が裂けた。 32 そして大地〔女性名詞〕は彼女の口を開けた。そして彼女は、彼らを、また彼らの家を、またコラに属する全人間〔アダム〕を、また全家財を呑んだ。 33 そして彼ら、彼らこそが、彼らに属する全ての生命たちと冥府へ降った。そして彼らに接してその大地は閉じた。そして彼らはその会衆の真ん中から滅んだ。 34 そして彼らの周りの全イスラエルは彼らの声のために逃げた。なぜなら彼らは言ったからだ。「その大地がわたしたちを呑まないように」と。 35 そして火〔女性名詞〕がヤハウェから出た。そして彼女はその香を焚いている五十と二百の男性を食べた。

 神は大地を切りました。そして不思議な地割れが起こり、ダタンとアビラムの家族と家と家財道具を呑み込み、そして再び地面は閉じました。「コラに属する全人間〔アダム〕」(32節)、コラに従ったダタンとアビラムと解すれば、この場面はダタンとアビラムの天幕周辺の出来事に限定されます。遠く離れたコラの天幕の話ではないということです。実際その他の聖書箇所でも、大地に吞まれたのはダタンとアビラムだけです(申命記11章6節、詩編106編16-17節)。コラがこの時共に冥府に降ったのか、本文は曖昧です。35節の「火」も、17節の二百五十人を食べたというだけで、コラが含まれていたかどうかは不問のままです。

 民数記26章10節によれば、コラもダタンとアビラムと共に地に呑まれたようです。そうだとすればコラはモーセと長老たちと一緒にダタンとアビラムの天幕まで来たということになります。しかし、民数記は直後にコラの息子たちは死ななかったと報じています(26章11節)。コラの天幕には地割れは起こらなかったのです。ダタンとアビラムとは異なり、コラの家族は冥府に降りませんでした。この微妙な書き方に重要な教えが秘められています。それがわたしたちにとって福音です。

神の裁きは厳粛な出来事でした。しかし、神の裁きは不思議な逃げ道も同時に用意するものでした。聖書の裁きながら救う神です。

歴代誌上6章22節にコラの息子であるエブヤサフと、その子孫たちの名前が紹介されています。大祭司アロンの従兄弟であるコラの家系は、神殿の詠唱者の一族としてその名を記念されています。詠唱者とは、聖歌隊の中の指導者です。自ら作詞作曲をし、歌の指揮もするような指導者です。たとえば詩編42編等に、「コラの息子(または子孫)」の讃美歌が残されています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように。神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩編42編2節)。

なぜ反乱の首謀者コラの裁きが曖昧にされ、ダタンとアビラムの裁きが明確にされているのかの答えがここにあります。コラの息子たちが、当時の風習にあらがって家長であるコラに従わなかったからだと思います。彼らは父親の醜い罪から離れ、隣人と比較し競合する道ではなく、神を慕う道を選んだのだと思います。カインの追放の後にセツが生まれたように、バベルの塔の後に人類が散らされ増えたように、神は裁いて救う方です。断ち切って、新しい芽を生えさせる方です。十字架で見殺しにした神が、よみがえらせる神なのです。

今日の小さな生き方の提案は、イスラエルの長老たちや、コラの息子たちに倣うことです。確かに人間は醜い側面を持っています。自己中心であり、他人を支配しようとすることがどんな人にもあります。それらの罪については神に裁いていただきましょう。ダメなものはダメと聖書によって照らしてもらいましょう。その上でどう生きるかです。隣人に心底親身になって「一緒に高いところに行こう」と励ますことや、自分の心を素直に開いて隣人を呪うのではなく神を賛美することです。良心に従い良心的に生きることです。