最高法院で 使徒行録22章30節-23章11節 2024年1月7日礼拝説教

パウロのエルサレムでの受難物語の続きです。パウロの苦しみと、イエスの苦しみが重なり合っていることを頭に入れながら読み進めてまいりましょう。

30 さて翌日、なぜ彼〔パウロ〕がユダヤ人たちによって告発されたのか、信頼すべきことを知ることを欲して、彼〔千人隊長〕は彼〔パウロ〕を解いた。そして彼は祭司長たちと全ての最高法院(議員)に共に来ることを命じた。そしてパウロを連れ降って、彼は彼らの中へと立たせた。 

 ローマ軍の千人隊長は、以前から事実を知りたいと願っていました。一体なぜパウロという人物がここまで正統的なユダヤ教徒から嫌われ、命を狙われているかの理由について、正確な情報を得たいと願っています。「信頼すべきことを知ることを欲して」いる態度は、21章34節から一貫しています。文言レベルで一致した表現です。21章33節でパウロを縛った縄目を、彼は「解いた」後に、千人隊長は最高法院を召集しました。アントニオの塔というローマ軍司令部から階段を下りて、エルサレム神殿敷地内/周辺にあった最高法院の議場にパウロを連れて行きます。

 とても珍しいことです。ローマ帝国占領軍に、植民地ユダヤの国会/最高裁判所開催の権限があったということを裏付ける資料は今のところ発見されていません。GHQが日本の国会/最高裁を召集するようなものです。千人隊長は支配されているユダヤ人からの反感も買うでしょう。それでも彼は事実が何であるのかを探求しようとします。このような権力の使い方もあることを知ります。多分に彼はローマ帝国市民であるパウロを釈放したいのだと思います。告発され処刑される法律上の理由がないこと植民地における最高裁判所で証明したいのでしょう。

1 さてパウロは最高法院を凝視して、彼は言った。「男性たちよ、兄弟たちよ、私、この私は全く良い意識でもって今日まで神のために市民生活をしてきた。」 2 さてその大祭司アナニアは彼の傍に立っている者たちに彼の口を打つことを命じた。 3 それからパウロは彼に向かって言った。「神があなたを正に打とうとしている。上塗りされた壁よ。そしてあなた、そのあなたは律法に従って私を裁きながら座っているのにもかかわらず、律法違反をしながらあなたは私を打つことを命じているのか。」 4 さて傍らに立っている者たちは言った。「あなたは神の大祭司を罵っている。」 5 パウロも言い続けた。「私は知らなかったのだ、兄弟よ、彼が大祭司であるということを。というのも次のように書いてあるからだ。『あなたの民の指導者をあなたは悪く言わないだろう。』」 

 「大祭司アナニア」(2節)は紀元後47-59年まで大祭司の任にあった人物です。パウロが逮捕されたこの時期は後56年春ですから、確かにアナニアの在任中の出来事です。念のために言えば、後33年ごろ青年パウロにダマスコでのナザレ派迫害のお墨付きを与えた大祭司とは別人です(9章1-2節)。大祭司は「祭司長たち」(30節)の長・最高法院議長ですから、ユダヤ植民地政府の最高権力者です。アナニアは歴代大祭司の中でもかなり悪い人だったようで、この後に起こるローマ帝国への反乱の際に、ユダヤ人同胞に殺されるほど恨みを買っていた人物です。今回の異例の裁判における被告パウロの第一声を暴力でねじ伏せようとする態度にも表れています(2節)。千人隊長とは対照的に、アナニアは権力の使い方を間違えています。

 「私、この私は全く良い意識でもって今日まで神のために市民生活をしてきた」(1節)とパウロは言っただけなのに、なぜアナニアはこの発言を暴力で封じようとしたのでしょうか。なぜそのようなことが堂々とできるのでしょうか。古代社会のこととはいえ、政教分離原則というものの重要性を学ぶべきでしょう。政治の頂点が宗教界の頂点でもあるという仕組みは、十二分に強い力を持っている政治権力に、宗教的権威というものさえも与えることに危険性があります。民主社会において、権力は分散されるべきです。最高法院のようにではなく、内閣と国会と裁判所は分けられるべきです。そして、元首は特定の宗教の長であってはいけません。人間に過ぎない元首の政策を、「誤りのない神の意思」としてはいけないからです。批判を封殺するために宗教的権威は大いに悪用されてきました。だから政教分離原則という考え方が大切です。これはバプテストが初期のころから主張してきた大切な財産です。

つまり「神の大祭司」(4節)という珍しい呼び方の恐ろしさを自覚したいのです。大祭司の配下の者たちは、神の代理人として崇められているアナニアに絶対的に服従しています。彼らは神の権威に支配されたがっています。その神の権威の下で、自分よりも宗教的に下位にあると思われる者たちを支配したがっています(ヨハネ18章22節も)。これが罪です。

パウロの言葉は爽やかです。宗教的な救いを得ている人の態度です。徹底的な謙虚さと圧倒的な自己肯定感をもって臨んでいます。彼は自由自在に力を濫用する人を批判します。ナザレのイエスのようです。

第三者に暴力の行使を命じる者は、支配という罪と暴力という罪の二重の罪を犯しています。「神があなたを正に打とうとしている」(3節)。宗教者として神に仕えていると言いながら、他人を支配し、他人に危害を与える者は神に仕えていません。大祭司は「律法に従って」裁いているつもりで「律法違反をし」続けているのです(3節)。律法は要するに「神を愛せ・隣人を愛せ」と命じているのです。大祭司こそ死刑囚に仕えるべきです。パウロは、イエスがファリサイ派の律法学者に投げつけた呼び方「上塗りされた壁よ」(3節。マタイ23章17節)を、サドカイ派の大祭司にぶつけます。「偽善者よ」

なおパウロは「目の前の人が大祭司だとは知らなかった」と言い訳していますが(5節)、これは単なるおとぼけです。ファリサイ派の最高法院議員ガマリエルの秘書役だったパウロが、また時の大祭司と直接会ったことがあるパウロが、大祭司の外観(衣服・座席・所作)を見間違うことはありえません。余裕しゃくしゃくと言うべきか、救われている者の態度の一環です。

6 さてパウロはその一部がサドカイ派からの者たち、また他方がファリサイ派からの者たちであるということを知っていたので、最高法院の中で彼は叫び続けた。「男性たちよ、兄弟たちよ、私、この私はファリサイである。ファリサイ派の息子(である)。死者たちの希望と復活について私は裁かれている。」 7 さてこのことを彼が言ったのでファリサイ派とサドカイ派の不一致が起こった。そして多くの者たちが割れた。 8 というのもサドカイ派は、「復活はない。天使も霊もいない」と言っているからだ。一方ファリサイ派はそのどちらも告白している。 9 さて大きな怒号が起こった。そしてファリサイ派の一部の律法学者たちの数人は立ち上がって論難し続けた。曰く、「私たちはこの人間の中に悪いものを見出していない。さて、もし霊あるいは天使が彼に話しているならば…」。 

 最高法院は70人ほどの議員からなり、3分の2がサドカイ派であり(14節「祭司長たち」という聖職貴族と、「長老たち」という世俗貴族)、3分の1がファリサイ派でした。パウロは議員分布を既に知っていました。師匠ガマリエルが3分の1の議席を用いて、ナザレ派のペトロとヨハネを釈放させた裁判をパウロも知っています(5章33節以下)。パウロは主にファリサイ派に向かって叫び続けます。「私もファリサイ派である。ファリサイの一人として、同じ信仰告白をしている。私は死者たちの復活を信じている。その最初の人としてナザレのイエスがよみがえらされた。わたしは世の終わりの希望を持っている。復活されたナザレのイエスが世の終わりに到来する。イエスは私にご自分の霊を送られた。この信仰が裁かれるべき罪だと思うのか」(6節)。狙いは明確です。サドカイ派が復活を否定し、ファリサイ派が肯定しているという立場の違いを衝いて(8節)、両者が合意する死刑判決を出させないようにしたかったのです。それは千人隊長の願いでもありましょう。

 そしてパウロの狙い通りにファリサイ派議員とサドカイ派議員の意見が割れて(7節)、議場/法廷は大混乱に陥り全会一致の判決が出せなくなりました(9節)。ファリサイ派の論客は立ち上がってパウロ弁護の意見を言い募りますが、その途中で遮られているようです。サドカイ派が掴みかかったせいでしょうか、一文が完成しないままです。

10 さて多くの不一致が起こったので千人隊長は、パウロが彼らによって裂かれないかと恐れて、彼はその部隊に、降りて彼を彼らの真ん中からさらうように、また軍営の中へと連れて行くようにと、命じた。 11 その日の夜に彼に接して立って、主が言った。「勇敢であれ。というのもエルサレムの中へと私についてあなたがよく証言しぬいたように、そのようにローマの中でもあなたは証言しなければならないからだ。」

 両派がパウロの身体を奪おうとしたのでローマ軍が介入します。またもやパウロはローマ軍に助けられます。いや厳密には、彼の言論が彼を死刑判決から救ったのです。一連のやりとりで千人隊長はユダヤ政府が一枚岩ではないことを知りました。さらに厳密に言えば、聖霊が彼に必要な言葉を語らせたので、彼は救われたのです。救われた者の態度であり続けたのです。パウロは、ナザレのイエスを彷彿とさせる知恵の言葉を、死を自覚する裁判の席上でも使いこなしました。イエスの霊が宿っていたからでしょう。

 その日の夜、主イエスがパウロに接して立ちます。パウロがイエスに出会うのは三回目です。ダマスコ途上の白昼夢の中で初めて(9章3節)、コリント滞在中のとある夜に二回目(18章9節)、そして最高法院での裁判直後の夜アントニオの塔で三回目です。復活の主はいつもパウロを導いています。最初の転向も、絶頂期にあったコリント伝道も、そしてこの受難の時にも、イエスはパウロの人生を支えています。法廷で「傍に立っている者」(2節)がパウロを殴ろうとした時、実はイエスが「彼に接して立って」(11節)守っていたのです。幻の中で出会うイエスは常に新しい使命をパウロに与えます。「よくやった、忠実な僕よ。よくぞ死者の復活と苦難を耐え抜く希望について、つまり私について証言し抜いた。ユダヤ政府に立ち向かうことは容易ではないことを私はよく知っている。さあ、次の使命はローマへ行くことだ。ローマ帝国に立ち向かって十字架と復活の私を証言しなさい。裁判を続けて行きなさい。あなたにとってそれは必然だ。勇敢であれ。」

 今日の小さな生き方の提案は勇敢であることです。腹をくくって覚悟を決めるということです。何でも構いません。何かを止めることか、始めることか、方向を変えることか、それとも今行っていることを着実に行うことか、とにかく肝を据えることです。その時、周りの中で応援する人もいます。その時、不思議な知恵が与えられ、非難も無化されます。パウロほど劇的ではなくても、小さなわたしたち全員に「必然的な新しい使命」を、主イエスは与えています。職場/学校/家庭/地域/教会等々において、勇敢でありたいと願います。謙虚で堂々と小さなことに忠実にキリストを証して歩みましょう。