正義と公平 ホセア書2章20-25節 2022年8月14日礼拝説教

預言者ホセアは紀元前750年ごろに活動した北イスラエル王国の預言者です。唯一の生粋の北王国出身の預言者です。アモスと並んで、預言書という文学分野を確立した人でもあります。預言を街角の説教に留まらせず文書に残したのです。アモスの文筆活動に触発され、アモス書の数年後にホセア書は書かれました。内容は強烈な王権批判です。「金の子牛を崇め続け、バアル崇拝を続ければ国は滅ぶ」というのです(5-10章)。ホセアの預言通りに北王国は前721年に滅亡します。ホセアの弟子(本人も含むか)が南ユダ王国に難民として移住します。その時ホセア書が南王国に持ち込まれました。ホセアの弟子たちや旧北王国の官僚たちが、南王国の再生を目指して申命記から列王記を作っていきます。後に預言者エレミヤがそこに参与していく動きが、正典というものを形成していくからです。その重要な主張は「イスラエルとヤハウェ神は一対一の契約を結んでいる」というものです。

20 そして私はその日に彼らのために契約をちぎる、野の生き物と共に、また天の鳥と共に、また地の這うもの(と共に)。そして弓と剣と戦争(を)私は地から砕く。そして私は彼らを安全に寝かせる。 

 ホセアの生きていた時代は戦争が日常的でした。前733年には北王国はアラム王国と同盟して南王国に攻め入ります。前721年にはアッシリア帝国が北王国を滅亡させます。ホセアの住む北王国は侵略する国でもあり、侵略される国でもあります。20節の「その日」はおそらく、北王国が滅亡させられた時を指します。というのも、被造物たちを含む契約が、ノアの洪水後の契約に似ているからです(創世記6章10節)。ちなみに「弓」は「虹」(創世記6章14節)と同じ言葉です。洪水後、神は戦争の道具である弓/虹を天に置いて、二度と用いないことを約束したのです。

 徹底的な破局の後に、平和が訪れます。20節は戦争とは何か、平和とは何かを考えさせる聖句です。戦争とは洪水との類比で言っても、人間に対してだけではなく被造物世界全体に対する暴力です。そして戦争とはしばしば、国と国との間の「契約(ベリート)」、つまり軍事同盟を軸としてなされます。先ほどの前733年の戦争が示す通りです。安全保障と呼ばれるものの本質は、契約を結ぶ複数国と複数国との対立です。核の傘のもと、わたしたちは真に安全に寝ることができるのかが問われています。

 それに対してホセアは、平和を神と被造物との契約に基づくものとします。人間には何も期待していません。契約の相手方としての「神の民イスラエル」はここで無視されています。人間は食物連鎖の頂点なのではなく、食物連鎖の邪魔者です。人間を大いに戒めているとも読めます。そして、ホセアは武器と一緒に戦争は砕かれるべきものと語ります。武器と戦争を砕くとは奇妙な表現ですが、事の本質を言い抜いています。戦争の放棄をするためには、一切の武器の開発と製造と販売と保持を止めることが必要です。ウクライナ戦争においても顕著ですが、武器を売ることで儲ける人がいなくならなければ戦争はやみません。神が人間に求めていることは、武器を棄てること、それにより一つの地球を守ることです。日本国憲法9条と響き合っています。

21 そして私は貴女と婚約する、私のために永遠に。

そして私は貴女と婚約する、私のために正義において、

また公正において、また誠実において、また共感において

22 そして私は貴女と婚約する、私のために真理において。

そして貴女はヤハウェを知る。

 ホセアは神と民の関係を婚姻関係にたとえます。しかも当時としては珍しく一夫一婦制のもとにある結婚です。それを基にして、イスラエルのバアル崇拝は「姦淫(不倫)」にあたると王権を批判したわけです。ちなみにバアルは「夫」や「主人」をも意味します。この着想によって唯一神教という信仰が発展することになるので結婚のたとえには一定の評価が必要です。ホセアはエリヤの「ヤハウェかバアルかの選択」を継承しました。そのホセアをエレミヤ、エゼキエルが踏襲し、第二イザヤが洗練させます。

とは言え結婚(男女の異性婚が前提)を神と民の関係の譬えにすることは、現代においては控えた方が良いでしょう。同性婚や独身や離縁を否定的に捉える方向に考えが向かってしまうからです。この意味で「婚約する」という言葉には注意が必要です。婚約する行為は、正式な結婚と同じ意味を持っていました。クリスマス物語で「(法的に)正しい人」ヨセフが婚約者マリアに対して「離縁」を考えている通りです(マタイ1章18-19節)。婚約の解除ではないわけです。古代ユダヤ社会は家制度が強い社会です。家を存続させるための家長同士の約束に基づく結婚という考えは抜きがたくあります。ホセアもその一人です。時代の子として彼は結婚の喩えを選びました。

 民主政治制度のもと、個人主義に基づく近代憲法を持つわたしたちは、家制度・国家主義・権威主義を批判する聖書解釈を採る必要があります。神と民の関係を結婚という比喩にしないで、一対一で向き合う相手と解すべきです。結婚に閉じ込めない方が、神の言葉(物事を創造する力)は豊かに広がります。

それはヤハウェに知られ「ヤハウェを知る」(22節)という関係です。教会は、イエス・キリストに知られ、イエス・キリストを知るという団体です。十字架の主イエスは、わたしたちの悲しみや苦難を知る方です。復活の主キリストは、わたしたちの喜びや解放を知る方です。イエス・キリストを知ることによって、わたしたちは自分自身の人生を知ります。教会の交わりの中で隣人の負わされている十字架や、解放の出来事を知ることによって、わたしたちは十字架と復活を追体験することができます。知ることは信じることです。

「私(ヤハウェ)は貴女(イスラエル)と婚約する」を「神と民の向き合い知り合う関係」と理解した上で、21-22節の構造について説明いたします。「そして私は貴女と婚約する」が3回繰り返され、常に「私のために」を後続させています。「私のために」の後にくる六つの名詞が、神の性質を示しています。これらの六つは相互に似ています。最も外側の枠をなす組み合わせは「永遠」(21節)と「真理」(22節)です。この二つは、神の不変性を示しています。変わらないということは信頼を増す要素です。久しぶりに会った友人と、「あなたも変わらないね」という挨拶を交わす時、わたしたちは信頼を確かめ合っています。わたしたちと向き合う神は、いつまでも変わらない、いつでも懐かしい相手です。

神が変わらない方であるということに囲まれながら、その他の四つは21節後半に一つながりのものとして並べられています。「正義(ツェダカー)」「公正(ミシュパート)」「誠実(ヘセド)」「共感(レハミーム)」です。この四つは一つの神の性質です。この四つは愛と正義が混然一体とした概念であることを示します。旧約の神は怒り狂う正義の神、新約の神は優しい愛の神という分け方は単純過ぎます。たとえば正義(ツェダカー)は施し・慈善という意味にも発展しました。公正(ミシュパート)は公平な裁判という意味で、貧しさのために不当に貶められている人々を救済する行為でもあります。つまり、「義は愛を含む」のです。また、たとえば、誠実(ヘセド)は不実な態度を不正として質します。共感(レハミーム)は、正義に飢え渇く人々に対する感情です。義が愛を含むと同時に、「愛は義を含む」のです。

 繰り返される「私のために」は、神の性質が、ただ神自身の意志に基づいて地上に発動されるということを示しています。愛と義を、神はイスラエルという神の民に向けます。イスラエルの側に何の悔い改めもない時点で、神ご自身がイスラエルに応え、イスラエルを救い出します。十字架・復活と同じです。

23 そしてその日に次のようなことが起こる。私は応えるだろう。ヤハウェの託宣。私は天に応えるだろう。そして彼らこそが地に応えるだろう。 24 そして地は穀物に、また新しいぶどう酒に、また油に応えるだろう。そして彼らこそがイズレエルに応えるだろう。 25 そして私は彼女を蒔く、私のために地の中に。そして私はロ・ルハマに共感する。そして私はロ・アンミのために言う。「私の民は、あなた」。そして彼こそが言うだろう。「私の神よ」と。

 ヤハウェの愛と義に基づく救いとは農産物の豊かな実りです。神は天に働きかけ、天の宮廷で「善いこと」が諮られます。天は地に働きかけて太陽の光と雨を降り注ぎます。地は小麦粉とぶどうとオリーブに働きかけて実らせます。この働きかけは「応え」とあるように応答行為respondです。神が農夫役(24節)となり人間に模範を示し、人間の責任responsibilityを教えています。

このことは示唆深いものです。人間が行う、人間および被造物のために益となる行い、かつ、地球全体にとっても害ではない行いとは、結局農業なのではないでしょうか。つまり平和とは、地球全体の命が、自分の命を維持できるだけ食べること、分かち合うことなのではないでしょうか。その時人間は天地を創られた神に正しく応答しているのです。農が平和をつくります。

「イズレエル」「ロ・ルハマ」「ロ・アンミ」は、ホセアの子どもたちです(1章)。イズレエルという場所で北王国の一つの王家が滅ぼされました(王下10章11節)。その意味は「神は蒔く」。ロ・ルハマの意味は「彼女は共感されなかった」。ロ・アンミは「私の民ではない」。神の裁きをホセアは子どもたちの命名に込めていました。本日の箇所は、この命名に別の意味を込めて過去の預言を修正しています。それは「神がイスラエル(彼女)という種を地に蒔く農夫となる」という平和のイメージです。

25節「彼女」は、男性名イズレエルと調和しません。ここは語呂合わせと採り、イスラエルを指すと解します。イスラエルは「貴女」(21-22節)とある通り女性名詞です。それは「ロ・ルハマ」が「彼女は共感されなかった」を意味することとも重なります。神の共感を得られず、神との一対一の関係構築に失敗したイスラエルは、神によって放り投げられ世界へと蒔かれ散らされます。それが神の民に対する新しい救いのかたちです。世界という良い畑に蒔かれ、その置かれたところで根を張って芽を出して実を結ぶという道です。マルコ福音書4章の「農夫の譬え話群」の原型はホセアの預言にあります。

今日の小さな生き方の提案は、神の種蒔きに信頼することです。神はわたしたちに命を与え、世界に蒔かれました。世界は神が耕した畑です。それぞれの人生は違います。同じ種類とは言え異なる特徴を持ち、少しずつ異なる場所に蒔かれているからです。神は一つずつの種をよく知っています。良い農夫です。石を除き、茨を抜き、鳥を追い払い、天候を調べ、土壌改良に取り組みます。わたしたちが自分の人生を諦めない理由は、良い農夫に対する信頼にあります。種がうまく実を結ばない理由は種自身にはありません。種を創り、種を育てる責任を負っている方にあります。だから必ず何とかなるのです。自分を放り投げ、その場で育てる神をあっけらかんと信じることに平和があります。