求めなさい ルカによる福音書11章5-13節 2017年7月2日礼拝説教

今日の箇所は二つの例え話に分かれます。「友人に図々しいお願いをする人の例え」(5-8節)と、「父親に駄々をこねる子どもの例え」(11-13節)です。どちらも、神に祈る人を例えています。あるいは逆からも題をつけることができます。お願いされる神に焦点を合わせるならば、「面倒な願いをしつこくされた人の例え」と、「子どもに駄々をこねられた父親の例え」とも言えます。どちらも、人間に祈られる神の姿を例えています。このうちの前半は、ルカ福音書にしかなく、後半はほとんど同じ内容がマタイ福音書7章7-11節にあります。

先週取り扱った「主の祈り」は、祈る内容についての教えでした。短く率直に日常生活に即した内容で祈ることが、主の祈りで要求されていました。それに対して今日の箇所は、祈る姿勢についての教えです。どのような態度で祈ることが良いのかということです。一言で言えば、叶えられると信じてがむしゃらに求めるという姿勢・態度が要求されています(9-10節)。

少し意外な感じがします。もっと冷静で合理的であり大人びた教えを期待するからです。例えば、「自分の願いが聞かれなくても、神の意思が地上で行われますように」というような祈りが模範的なように思えます(22章42節参照)。ある種の諦めや、「人生万事塞翁が馬」の故事のような達観が、聖書の教える祈りの態度のように勘違いされがちです。しかし、イエスは祈りをもう少しがつがつとした要求と捉えています。二つの例え話から、がむしゃらに求める祈りの態度について学びましょう。

自分の家に旅行中の友人が来た時に、自分には食事の用意がない場合のことです。これは緊急事態です。しかし、自ら招いた事態でもあります。用意が無いならば宿泊・食事の世話を引き受けなければ良いからです。だからこれは極端な事例を持ち出した例え話です。イエスはしばしばこのような極端な例え話を語りました。

この人は自分に引き受ける能力がないにも関わらず、身の程知らずにも客を引き受けて、その結果パニックを起こしています。そこで真夜中に近所の友人宅を訪ねて図々しいお願いをするのです。「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」(5-6節)。はた迷惑な話です。

叩き起された友人は、初め戸も開けずに、「面倒をかけるな。何時だと思ってるんだ。戸締りもしたし、子どもも寝かしつけた。起きてあなたに何かをあげることは無理だ」(7節)と断ります。しかしあんまり戸を叩き続けられ大声でお願いをされると、せっかくの子どもの寝かしつけが無駄になってしまうかもしれません。「友達だから無理な願いも聞いてやるか」と考えたのではありません。友達の客は、起こされた人とは何の関係もないし、客を泊めることに何の責任もないからです。しかし、これ以上騒がれると自分にとって不利益が起こるので、しょうがないから戸を開き、身勝手なお願いではあったとしても、それに応えてパンを貸してあげるのです(8節)。

この例え話は、やもめと裁判官の例え話とよく似ています(18章1-5節)。これもルカ福音書にだけ記載されている例え話です。どんなに悪い裁判官も、あんまりしつこい求めについては、そのやもめのためにという理由ではなく、自分の利益のために(これ以上の面倒をかけられなくなることの方がましだという判断により)、やもめの求めに応じるはずだという例え話です。

やもめにしろ、図々しい友人にしろ、ずる賢くしたたかです。相手が打算的な理由で折れてくれる状況を作り出し、いつかは妥協してくれるということを予測し、厚かましくお願いを続けているからです。彼・彼女は蛇のように賢いのです。その一方でこの両者が必死であることも事実です。最後のチャンスとばかりに裁判官や寝ぼけ眼の友人に熱意をもって愚直に願い求めています。彼・彼女は鳩のように素直でもあります。

いずれにせよ両者の共通点は、相手の事情をまったく考えていないことです。自分の要求が通ることだけを考え、脇目も振らずに、わがままに図々しく願い続け、そしてその思いを遂げています。裁判官も叩き起された友人も、初めは親切をする気が全くありませんでした。これ以上関わると面倒だなというように、彼らの気持ちを変えたことと、祈りが関係するのです。

この真夜中に叩き起された友人と、神が似ているとイエスは語っています。「パンを三つ貸してくれ」と真夜中に戸を叩き続ける人物に、模範的な祈りを実行する人が例えられています。実に大胆な例え話です。面倒臭がって願いを渋々聞くという姿が、慈愛に満ちた神の姿とは程遠いからです。しかしわたしたちの実感と近い神像でもあります。神は遠い存在です。なぜなら辛い人生の旅路に全然わたしたちの祈りを叶えてくれないように思える時が多いからです。

このような遠い神に向かってどうすれば良いのかが信じる者にとっての課題です。イエスは、もっと図々しく祈り続けなさいと命じています。なぜなら、どんなに格好が良いお祈りであってさえも、神にとってわたしたちの祈りは、ただの図々しい願いでしかないからです。

「困ったときの神頼み」と言われます。本当にそうだと思います。格好つけていられない必死の場面というものが、人生にはあります。そのような窮地には、どんな人でも図々しく祈るものです。そうであるならば、その図々しい祈りをいつもしなさいとイエスは命じています。人生を生き抜くということ、一日を生きること、来る日のパンを確保することは、本当に必死の努力です。何とかしてくださいと熱意をもって図々しく率直に、面倒がられるぐらいにしつこく、毎日ささいなことも祈ることです。そうすれば神の気が変わるのです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(9-10節)。

しばしば「キリスト教はご利益宗教ではない」と、まことしやかに言われます。それは一面当たっています。神を自動販売機のようにして、自分の願望の投影としてはいけないでしょう。しかし、それならばなぜわたしたちは祈るのでしょうか。地上に叶えて欲しいことがらがあるから、神に祈っているはずです。そしてわたしたちの力を超える超越的な能力をもって、神は祈られたことを叶えることができると信じているから祈っているはずです。なぜ叶えられないときをいつも想定しながら、自分の願いを図々しく祈らないのでしょうか。あるいはある種の、「神を弁護する意図」をもって、祈りが叶わない可能性を強調することが信仰にふさわしいのでしょうか。イエスはもっと素朴な祈りの態度を教えています。どんなに願いが聞かれていないように思えても、しつこく願い続けることが信仰というものです。

イエスは「面倒くさそうに求めに応じる友人」という神の姿と同時に、「子育てをする父親」という神の姿を持ち出します。一般に例え話は、一つの真理を言い抜くことに優れていますが、別の真理については整合性をもって説明しきれないものです。なかなか願いが聞かれないことがあるということや、神が遠い存在に見えること、神の気変りを、前半の例え話は説明していますが、神が近い存在でもあること、愛情深い方であることを説明できません。だから、二つの例え話を同時に考えた方が良いでしょう。前半は「神が遠くても祈れ」という趣旨であり、後半は「神が近いから祈れ」という趣旨の例え話です。

「育児をする父親に対して『育メン』とあえて名付ける人がいるが、育メンなどという人はいない。育児をする男性保護者をただ『父親』と呼ぶ」という言葉は正しいと思います。イエスもまたこの例え話で一般的な「父親」を登場させています。父親が育児をしていることは大前提なのであって、特別な育メンが例え話の主人公となっているわけではありません。ちなみに、前半の例え話でも子どもを寝かしつけて一緒に寝ているのは、父親も母親も同じです。

子どもは親に欲しい物を無邪気に求めます。お腹が空いている子どもは食べ物を欲しがります。自分の子どもに対して意地悪をする親がいるだろうかとイエスは問うています。魚を食べたいと言っている子どもに、あえて毒蛇を差し出す親がいるでしょうか(11節)。卵を食べたいと言っている子どもに、あえて猛毒を持つ蠍を差し出す親がいるでしょうか(12節)。社会で悪人とみなされている人でさえも、自分の子どもにだけは意地悪をしないはずです。神は一般的な親にも優って、わたしたちすべての親です(13節)。すべての者は神の子だからです(3章38節参照)。そうであれば、祈りは必ず聞かれ、願いは叶うはずです。少なくとも神は我が子に意地悪をしないはずです。

この例え話は「アッバ(お父ちゃん)」である神の説明となっています(2節)。極めて近い存在である神に全幅の信頼を寄せることの教えです。神は決して遠い存在ではないことをイエスは力説しています。それは彼自身が持っていた素朴な神への信頼です。神は乳幼児に良いものを与える親です。

ところが、この例え話は、「親による子どもに対する虐待」という、現代的な話題について、うまく説明できません。親が自分の子どもに意地悪なことをする可能性を考えていないからです。虐待を受けたことがある人は、アッバである神という姿を拒否したいことでしょう。また虐待をしてしまった人に共感することが、認められないようにも読めます。一人で子育てせざるを得なくなった親が追い詰められ子どもを虐待してしまう場合、わたしたちは安易に「近頃の親はどうしょうもない」などと断罪すべきではありません。むしろ時代の課題について共に担うべく共感することが求められています。ここにおいても一つの例え話は一つの真理しか説明できないということが当てはまります。

こうして二つの例え話を併せて読み、両者を行ったり来たりしながら、一つの教えを覚えることが必要です。神を親として想定したくない人は、面倒くさそうに願いに応える友人としてイメージしつつ、諦めないでがむしゃらに祈り続けるべきです。神を面倒くさそうに願いに応える友人として想定したくない人は、最も近くで世話をしてくれた人としてイメージしつつ、素直にがむしゃらに祈り続けるべきです。もちろん、この二つの例え話でも汲み尽くせない神の姿が聖書には証言されています。聖書の豊かな証言を信頼しつつ行ったり来たりしながら、神への信頼を保持し続け、常に祈ることが必要なのです。

今日の小さな生き方の提案はがむしゃらに祈るということです。半信半疑でも良いし、素直に信じきっても良い。この地上に実現したい夢や希望があるのならば、神に向かって祈ることです。イエスは失望や絶望、諦め、断念などを勧めていません。人生を前に進めるために、素朴に希望をもって祈り続けることが大切です。苦難そのものに意味を持たせるのは敗北主義です。葛藤を乗り越えること、その力が神にあることを信じて祈ることをお勧めします。