治癒奇跡 使徒言行録19章11-20節 2023年3月5日礼拝説教

11 そこで常ならぬ諸力を神がパウロの両手を通して為し続けた。 12 その結果として弱い者たちの上に彼の皮膚から汗拭きの布やその他の布が持ち運ばれ、また彼らから諸病気が離れ、悪い霊たちも出て行く。 

 エフェソの教会に起こった出来事の続きです。パウロは二年間毎日「ティラノの集会所」(9節)で聖書について講演をしていました。毎週日曜日の礼拝についてはプリスキラ・アキラ夫妻が主宰しています。主イエス・キリストによって全ての人が救われるという「主の理」(10節)=福音が宣べ伝えられます。その間、さまざまな手紙がさまざまな同労者によってガラテヤやコリントやローマにある教会に届けられます。コリントの信徒への手紙一は、ソステネという男性が運びました(一コリ1章1節)。この人は使徒言行録18章17節に登場したコリント教会員です。同手紙二はテモテが運んでいます(二コリ1章1節)。ローマの信徒への手紙は、フェベという女性指導者が運んだようです(ローマ16章1節)。ガラテヤ書については不明です。それらの手紙の内容に福音が述べられているので、後に諸教会の礼拝で朗読され、新約聖書の一部となっていきます。パウロには書き言葉で福音を宣べ伝える才能がありました。エフェソの教会がパウロの特長を伸ばしたのです。

 さて、その一方で言葉ではない分野においても、パウロが用いられたことが本日の箇所で紹介されています。それは治癒奇跡と悪霊祓いです。この二つの行為は、現代のわたしたちから見ると理解困難ですが、イエスがガリラヤで行ってもいます。イエスもまた言葉だけではなく、「常ならぬ諸力(奇跡)」(9節)を使って心身の不調を訴える弱い者たちを救いました。つまりこの箇所はパウロがイエスを継承していることを報告しています。

 特にパウロの「汗拭きの布やその他の布」といった、身に着ける物が「諸力」を伝導させ、その物を通して癒す力が伝達されるという事態は、出血が止まらない病気に苦しむ女性がイエスの服の房を触った出来事と共鳴しています(ルカ8章42-48節)。イエスはその後会堂長ヤイロの娘を奇跡的によみがえらせ(同49-56節)、十二弟子たちを悪霊祓いと治癒と福音宣教を仕事とする旅へと派遣します(同9章1-6節)。

 イエスの弟子たちである教会の使命は、治癒・悪霊祓い・福音宣教にまとめられます。それぞれが現代においてどのように定義されるべきかを教会は常に考えなくてはいけません。この三つはイエス・キリストの救いというものの三つの面を示しています。教会はこの三つを行うことで、イエス・キリストによる救いを紹介します。

差し当たって、簡単に定義してみましょう。教会が行う治癒は医療行為ではありません。医療行為は医療従事者の仕事です。教会がなす癒し(キリストの救い)は、その人の魂の癒し、心の深い部分の傷を覆うこと、その人の良心を立て直すことです。内心が痛んで教会に来る人をわたしたちは温かく歓迎いたします。教会はその人の悩み苦しみを知りません。それで良いし、それが良いでしょう。人によっては深入りされない関係が深い傷を癒すことに繋がります。密かに祈るという距離が大切です。

現代の医療行為の一種であるカウンセリングを教会が行うという理解では、治癒が狭くなるように思います。また自分の行いによって隣人が癒されるというように勘違いする場合もあります。あくまで救い主はイエス・キリストです。わたしたちは祈りをイエス・キリストの名前を通して神に寄せます。神は教会の祈りに応え、イエス・キリストを通して、その人の内心の深みをがっちりと支え、確かな生ける魂とします。これが癒しという救いです。

 イエスの服の房をつかんだ女性とイエスだけが、イエスから力が出て行って女性が癒されたことを知りました。周りに居る者たちは知りません。周りに居る者たちこそが教会の立ち位置でしょう。パウロの手ぬぐいに魔術的な力があったと考える必要はありません。本当に癒されたいと願う人は藁をもすがる思いで何でもするものです。その魂の呻きを神は知っていて、その人にしかわからない時に、とある出来事を起こしてくださり、その人を癒すのです。

13 さて、遍歴しているユダヤ人のうち悪霊祓いをする者たちの幾人かが、悪い霊たちを持っている者たちの上に主イエスの名前を唱えるということを試した。曰く、「わたしは、パウロが宣教しているイエスを(通して)、あなたたちに厳命する。」 14 さてスケワというユダヤ人祭司長の七人の息子たちがこのことを為し続けていた。 15 さて(彼らは)答えて悪い霊たちは彼らに言った。「私はイエスを知っている。私はパウロも分かっている。さて、あなた、あなたたちは誰か。」 16 そして悪い霊たちがその中にいる人間は彼らの上に跳びかかって、彼らみんなを支配して、彼らを圧倒した。その結果、裸かつ傷つけられ続けたままその家から逃げる。 

 次に悪霊祓いとは何かを考えてまいりましょう。本日の箇所は古代東地中海世界に散らばって住んでいたユダヤ人たちのために家庭訪問を行って悪霊祓いを実践していた霊能者がいたことを報じています。その人々がエフェソの町に来て、パウロの真似をして「主イエスの名前」を騙ったというのです。それはいたずら半分の行いでしたが、かえって悪霊を持つ人物に暴行をされたというのです。つまり悪霊祓いが失敗したという事例です。だから、悪霊祓いという教会の行う使命は、主イエス・キリストと人格的なつながりのある者たちがなすべきであるという主張がこの奇妙な物語に込められています。毎日主イエスの名前を通して祈る人々が悪霊祓いをよくできるということです。

聖書において人間は悪霊を持つことがあると表現されます(13節)。悪霊は人間と人間の関係を断つものとして描かれています。悪霊を持つ人間は、悪態をついたり暴力を振るったりするので、人間社会で生きにくくなります(16節。ルカ8章27節)。悪霊はその人の意思と反する行動をその人に取らせます。さらに、本日の箇所にもあるように、悪霊は人の子イエスのこと、神の子キリストによる救いを、人間たちよりもよく知っています(15節。ルカ4章34節)。

 現代的に解釈するなら、悪霊とは「人間を生きにくくする社会の仕組み」なのだと思います。たとえば「男らしさ」や「女らしさ」などが社会の仕組みに組み込まれています。その仕組みと考え方を、わたしたちは後天的に自分の内にも持っています。社会から植え付けられているとも言えます。「~らしさ」に基づいて、「あなたは~らしくあれ」と隣人に語ることは人間関係を壊します。特に同調圧力の強い日本社会で「~らしさ」に苦しんでいる人にとって、そのような発言は暴力です。わたしたちは悪霊を持っている者たちです。

 イエスはユダヤ人でありながらユダヤ人らしくありませんでした。律法をあえて破るからです。男らしくもありません。彼は風格もなく、見栄えも悪く、多くの痛みを負い、病を知っている人でした(イザヤ53章)。もしかすると背も低く(ルカ19章)、強くもなく雄々しくもないのです。イエスはご自身「~らしさ」から自由でした。そして、社会にある人間関係を壊す仕組み、それによって社会が個人を壊していく仕組みを批判し打破しました。悪霊祓いをした後に、その人を人間社会に戻すことは、その人を孤立させていた人間社会が改善されたことを象徴しています(ルカ8章39節)。

 教会が行う悪霊祓いは、個人を孤立させ壊していく仕組みを見抜いて、公に暴露することです。「もはや男らしさもなく、女らしさもない。そのような仕組みにしよう。」と世界に向けて発信することです。このような発信は悪霊的な社会(「~らしさ」を強要する社会)からは歓迎されません。悪霊的な社会は、キリストの救いというものをよく知っていて反対するからです。代々の教会が権力から迫害されることが多かったのは偶然ではありません。

 教会は教会の外へと悪霊の正体(問題性)を明かしながら、それと同時に少なくとも教会の中で実際に「~らしさ」に基づく仕組みをなくさなくてはなりません。自己矛盾を起こさないためです。そして隣人同士が信頼をもって仕え合うことです。

17 さて、このことがエフェソに住んでいた全てのユダヤ人たちにもギリシャ人にも知られることになった。そして恐れが彼ら全ての上に落ちた。そして主イエスの名が賛美され続けた。 18 そこで(すでに)信じていた者たちの多くが来続けた。彼らの行為を告白しながら、また、公言しながら。 19 さて魔術を行うこれらの多くの者たちは、その諸々の本を携えて、全ての者の前で燃やし続けた。そして彼らはそれらの価額を合計した。そして銀で五万を彼らは見出した。 20 このように主の力の下でその理は増え続け、また、圧倒し続けた。

 スケワの七人の息子の悪霊祓い失敗はエフェソ中に知られ、それによってイエスへの畏敬が増しました(17節)。すると教会の中で意外な現象が起こります。すでに信じていた信徒たちの悔い改めです。エフェソ教会員は謙虚な人たちの集まりです。スケワと七人の息子たちの失敗をあざ笑うのではなく、自分たちの姿を反省する機会としました。実は教会員たちの多くは魔術を行い、魔術のための「諸々の本(ビブロス)」をたくさん所蔵して愛読していたというのです。ここでは「聖書」(グラフェー)と異なる単語が用いられています。魔術教書を用いる魔術の延長として悪霊祓いを行っていたことを、教会員たちは悔い改め、五万デナリオンほどの価値がある本を自主的に燃やしました。この結果、「その理/言葉(ロゴス)は増え続けた」(20節)というのです。

 キリストの救いを紹介する福音宣教という愚かな手段は、結局聖書に基づいて十字架の言葉を語るということに尽きると思います。パウロたちは旧約聖書と、パウロの手紙という新約聖書も作りながら、聖書にのみ基づいて福音を宣べ伝えました。イエス・キリストの福音は、どんなに分かりにくくても聖書に基づいて紹介されなくてはいけません。その他の諸々の本や、世間で流行の知恵知識、カリスマ性のある有名な人の言動によっては、福音宣教はなされえません。教会はかたちづくられません。イエスは聖書によれば十字架で殺され、キリストを聖書に基づいて三日目に神はよみがえらせました。これを信じる全ての者に永遠の生命が配られ、魂が蘇らされると聖書は約束しています。

 今日の小さな生き方の提案は、自分自身の癒しを願いつつ、自分の知らない(知らなくて良い)隣人の癒しを密かに祈り願うことです。また、世界に蔓延している悪霊的な仕組みを見破り批判しつつ、教会も持ち自分も持っている悪霊祓いを祈り願うことです。これらの祈り願いを、真摯に主イエス・キリストの名前を通して、神に寄せていく敬虔さが求められています。さらに、聖書にのみ信頼し、聖書をよく読んで、聖書にのみ基づいてイエスが救い主であるということを宣べ伝えることです。教会の礼拝が、そのような福音宣教の場であり続けるようにと願います。癒し・悪霊祓い・福音宣教を、これからも教会の使命として行い続けましょう。