皇帝への上訴 使徒行録25章1-12節 2024年4月7日礼拝説教

イースターからペンテコステ(聖霊降臨祭=教会の誕生日)までの7週間を、復活後第〇主日と呼びます。アドベント(クリスマス前4週間)やレント(イースター前40日:日曜日を除く)と同じように、ペンテコステを待ち望むためです。もちろんわたしたちはバプテスト派ですから、そこまで教会のカレンダーを重視しません。とはいえ、今年は丁度年度の変わり目にイースターがあるということを考えると、心機一転の気持ちで7週間を過ごしたいと願います。会堂のステンドグラスはペンテコステの出来事を表す絵です。

 ペンテコステは教会の誕生日であり(紀元後30/31年)、さまざま言語を弟子たちが語ったという奇跡の物語でもあります。この奇跡の意味するところは、ユダヤ人の選民思想を打ち破る教えが、教会にはそもそもあったということです。ユダヤ教から分派したキリスト教は、どんな翻訳聖書も受け入れるし、どんな民族も受け入れる「広く寛容な器」です。全ての人が神に愛されているという福音を全ての人に伝えることが教会の仕事。その仕事を十全に行った人物の一人がパウロという男性です。彼が聖書に詳しく、しかもギリシャ語を第一言語とする人物だったからです。ギリシャ語は今でいう英語のようなもので、ローマ帝国の公用語の一つです。ローマ市民権も持っていたユダヤ人パウロは、自分の地位や能力を生かして、福音を東地中海世界に広く伝えました。そのために「正統」ユダヤ教徒たち(ユダヤ人の植民地政府)から嫌われ、植民地政府のあるエルサレムで逮捕され、属州ユダヤの支配者ローマ帝国の総督府があるカイサリアで、パウロの裁判は2年間係属中です。紀元後58-60年頃ローマ総督はフェリクスからフェストゥスに交代します。

1 それだからフェストゥスはその州に到着して、三日後にカイサリアからエルサレムの中へと上った。 2 その祭司長たちやユダヤ人たちの第一人者たちが彼に現れた。パウロに反対して、そして彼らは彼に呼びかけ続けた。 3 (彼らは)彼に反対して、彼が彼をエルサレムの中へと送り返すようにと恩恵を求めながら、その道の途中で彼を上げるという陰謀をなしながら。 4 実際それだからフェストゥスはパウロがカイサリアにおいて監視されていることと、一方彼自身も速やかに出て行こうとしているということを答えた。 5 「それだからあなたたちのうちの幾人か――彼は述べた――力ある者たちは共に下って、その男性の中に場違いなことがあれば何でも彼を訴えよ。」 

 着任間もなく総督フェストゥスは100Km先のエルサレムに向かいます。治安維持のためです。属州ユダヤは反乱が多く、その総督になる者はエルサレムの植民地政府にはいつも気を使わなくてはいけなかったのです。「その祭司長たちやユダヤ人たちの第一人者」(2節)は、植民地政府の議員たちです。この人々がパウロを逮まえて半殺しにしたのでした。細かい経緯は省きますが、パウロが虐殺されるのを防ぐために、ローマの千人隊長がパウロを助けてカイサリアまで送り届けています。だから、彼らの願いは常に変わらないのです。それは「パウロに反対して」(2・3節)パウロを殺すことです。だから彼らはパウロをエルサレムに送り返すことを要求します。「呼びかけ続けた」(2節)は、未完了過去時制。大勢の人々がひっきりなしに要求し続けたことを示す継続した過去の動作です。しかも裁判をする前に待ち伏せして殺そうというのですから悪質です。

 フェストゥスは、ローマ帝国にとってユダヤ教正統の訴えを無視することも危険ですが、パウロ暗殺に加担することもまた危険であると判断します。今度はユダヤ教ナザレ派たち(キリスト教会)が騒ぎ立つかもしれません。彼はやんわりと要望を断っています。パウロのカイサリアにおける軟禁状態を変える意思はないというのです(4節)。それと同時に、「わたしもすぐにカイサリアに戻る予定なので、もし望むならあなたたちのうちの有志がわたしと一緒にカイサリアに来て、そこで裁判を行えば良い」と言うのです。前任の総督フェリクスも似たような裁判を一度行い、その後2年間ユダヤ植民地政府は待ちぼうけを食わされています。ローマとユダヤの関係はそのような支配と被支配の関係です。ユダヤ植民地政府からすれば、ローマ総督の交代時期がパウロ殺害を再試行する、数少ない好機となります。

6 さて八日ないしは十日未満(の期間)彼らの中で(彼は)過ごして、カイサリアの中へと下って、その翌日に裁き台の上に座って、彼はパウロを引いて来るように命じた。 7 さて彼が傍らに現れたのでエルサレムから下って来たユダヤ人たちは彼を囲んで立った、彼らが証明することができないままの、多数のまた重大な訴えをのしかけながら。

 ローマ総督フェストゥスはエルサレム出張の仕事を8~10日ほど行います(6節)。その間に、パウロという人物について、彼と植民地政府との関係について、「異端」とされているナザレ派と正統ユダヤ教の教義上の対立点について、千人隊長リシアから詳しい事情を聴き取ったことでしょう。その後ユダヤ人権力者たちと共に総督府のあるカイサリアに向かいます。おそらく100Kmを丸二日かけて移動したと思います。そしてカイサリアに到着した「翌日」には裁判が再開いたします。「裁き台」はローマ帝国流の裁判官(総督)が座る場所で、イエスの裁判の時にも出てくる単語です。つまりパウロは十字架で殺されるイエスに倣い従っているのです。十字架前夜に十二弟子はみなイエスを見捨てて逃げたのですから、パウロは十二弟子に優る従い方をしています。パウロを取り囲む被告たちは、決して立証できないさまざまな訴因を持ち出して、彼の上にかぶせて行きます。「~だから彼は死刑に値する」という類の言葉に、パウロはじっと耐えます。非常につらい場面です。これもまたイエスの裁判に似ています。ただしかし、イエスと異なってローマ市民権を持つパウロは、十分な弁明の時間も与えられています。エルサレムでのユダヤ最高法院での裁判は「アウェイ」ですが、カイサリアでのローマ帝国流裁判はパウロにとって「ホーム」です。

 8 「ユダヤ人たちの律法に対しても、その神殿に対しても、皇帝〔カエサル〕に対しても、わたしは罪を犯さなかった」とパウロが弁明した時に、 9 さてフェストゥスはユダヤ人たちに恩恵を着せることを望みながら、パウロに答えて、彼は言った。「エルサレムの中へと上って、そこでこれらの事々について私の前で裁かれることを、あなたは望むか。」 10 そこでパウロは言った。「皇帝〔カエサル〕の裁き台の上にわたしは立ってしまっている、そしてそこでわたしが裁かれるのが当然だ。ユダヤ人にわたしは何も不義を行わなかった、あなた、あなたこそがよく認識しているように。 11 実際それだからもし私が不義を行ったならば、そして(もし)私が死に値することをしてしまったならば、わたしは死ぬことを拒まない。さてもし彼らがわたしを訴えていることが何もないのならば、誰も私を彼らに恵むことはできない。私は皇帝〔カエサル〕に上訴する。」 12 その時フェストゥスは法廷と共に協議して、彼は答えた。「あなたは皇帝〔カエサル〕上訴してしまった。皇帝のもとにあなたは行くだろう。」

 皇帝を意味するカエサルという言葉と、地名カイサリアが語呂合わせとなっています。カエサル・カイサリアの語呂合わせには、先ほど述べた、カイサリアにおけるローマ帝国流裁判がカエサルの臣民パウロにとっては自分の土俵であるという意味が込められています。

また、皇帝というものは臣下に「恩恵」(カリス)というものを上から下に与えるものだという考えに対する批判も透けて見えます。同じカリスという単語を使いながら、この「恩恵」は、キリスト教用語の「恵み」とは異なります。恩恵がユダヤ人権力者たちにとってもローマ総督にとっても政治的道具でしかないからです(3・9節)。「わたしたちにも恩恵を」と抜け抜けとユダヤ人たちは言い、「君たちにも恩恵を」とローマ総督は恩着せがましく言います。パウロは、誰かが自分を政治的道具として誰かに「恵む」(カリスから派生した動詞)行為を拒否しています(11節)。キリスト信徒にとって真のカリスは、イエス・キリストによる救いしか意味しないはずです。皇帝や王のあるところ、偽の恵みが横行し、安っぽく売り買いされます。

下手な日本語で恐縮ですが、現在完了時制の動詞を「~してしまった」と機械的に訳しました(10・11・12節)。ギリシャ語は時制が多く、それゆえに時制のニュアンスをかぎ取ることが面白い言語です。現在完了は、過去の行為の効果が現在まで残っているということを表す時制です。もしも自分が「死に値することをしてしまったならば」、その効果は行為の後もずっと続いている、自分は死ぬべきだとパウロは言っています(11節)。同じ要領で考えましょう。ローマ総督フェストゥスが裁き台に座って行う裁判は、パウロにとってローマ皇帝が裁き台に座って行う裁判と同じなのだと、パウロは言っています。ここにこうして立っている行為の効果は、これからもずっと続いているからです(10節)。つまりローマ帝国流の裁判が始まる最初から、パウロは最後まで上訴し続けてローマ皇帝に直接裁かれることを望んでいたということです。裁判の途中の当事者同士の示談による和解や妥協はなく、判決まで出させるという覚悟が表れています。

ユダヤ人たちの律法に対しても、その神殿に対しても、皇帝〔カエサル〕に対しても、わたしは罪を犯さなかった」(8節)。無実である限り有罪判決を出すべきでないし、それを「よく認識して」いながら無実の者に有罪判決を出すならば国家は間違えている。パウロは国家というものの危うさを告発しています。国家というものは、「国益」なるものを理由にして、小さな一人一人の思想信条を踏みにじりがちだからです。

フェストゥスは、パウロが「上訴する」(11節)という行為の効果がそのまま皇帝に会って皇帝が判決を出すまで続くことを確言しています。「あなたは皇帝〔カエサル〕上訴してしまった。皇帝のもとにあなたは行くだろう」(12節)。この言葉は、ユダヤ植民地政府の陰謀からパウロを解き放ちました。もしかするとローマで無罪判決を勝ち取り自由になるかもしれません。政治的駆け引きのもと2年間もカイサリアに居ることはパウロにとって本望ではありません。どうなろうとも前へ進みたかったのだと推測します。

今日の小さな生き方の提案は、ある覚悟をもって何かを選ぶことです。その時、その行為は一生効果を保ち続ける、かけがえのない決断となります。小さく言えば毎日わたしたちはそのような何かを選びながら生活をしています。それが効果を発揮し自分という人格を徐々に形成するのです。大きく言えば、人生の中には岐路が必ずあって、覚悟をもってどちらかを選ぶことがあります。生ぬるい状況を抜け出すために、外の状況変化に対応するために、打算抜きで損をしてでもあえて選ぶことがあります。その効果は一生ものです。パウロの覚悟に倣いたいと願います。そして新しい年度を共に歩みましょう。