盗まない生き方 出エジプト記20章15節 2016年1月3日礼拝説教

あなたは盗まないだろう。(直訳風私訳)

今日は第八戒です。第六戒・第七戒と同じく、極端に短い一文であり、対象語も無いので、読者は、「誰に対して何をすべきではないのか」を熟考する必要があります。「盗む」(ヘブライ語ガナブ)は、通例盗むべき対象を必要とする他動詞です。「~を盗む」としなくては意味をなさない言葉です。わたしたちは、ここでなるべく広く、「何を盗む事例が聖書に記載されているのか」を探ってみたいと思います。それによって、どのような生き方が神に求められているのかを知るためです。

ガナブの元々の意味合いは、「傍らにとっておく/取り除く行為」です。そこから派生して、ガナブは「密かに盗む行為」を含意するようになりました。あからさまな強盗や略奪ではなく、秘密に行う後ろめたい行いです。たとえば、ラケルという女性は父親ラバンの偶像を、本人に内緒で密かに盗みました(創世記31章19節。52ページ)。これがガナブの典型例です。万引き・置き引き・窃盗全般があてはまります。そして、第十戒の語る「隣人の家の所有物を欲しがる」行為とも、重なり合います。第六戒・第七戒のイエスの解釈と同様に(マタイ5章21-30節参照)、心の中で欲しいと思うだけで窃盗罪が成立してしまうからです。

十戒だけを読むと、心の中の問題を取り上げているのは第十戒だけです。しかしわたしたちは、イエス以後・新約聖書以後の世界に生きています。第八戒だけではなく、すべての言葉を心の中にまで射程を伸ばして解釈していくべきでしょう。第八戒も、所有欲の克服をも主題としています。第八戒と第十戒の関係が、イエスの解釈を先取りしていると言えます。

ところで、同じガナブがすぐ次の節でも登場しています。「ヤコブもアラム人ラバンを欺いて・・・」(創世記31章20節)。ここで「欺く」と翻訳されている表現は、直訳すれば「心を盗む(ガナブ)」というものです。ここでは、ヤコブという人が、義父ラバンを裏切って逃げる計画をラバンに秘密に立てている行為を指します。聖書は、密かな悪巧みを「心を盗む」行為と考え、批判しています。

「心を盗む」行為は、別の意味合いでもう一件記載されています。サムエル記下15章6節を読みます(503ページ)。アブサロムはダビデ王に反乱を起こしたダビデ王の息子です。アブサロムはポピュリストです。非常に巧妙な仕方で人々の人気をダビデから奪い取りました。それは人々のためを思ってしたのではなく、自分がダビデ王に代わって王となるためでした。自分の支配欲を満たすために、人々の心を操作したのでした。このような欺瞞に満ちた振る舞いを聖書は、「心を盗む」行為として批判しています。実際、アブサロム王子の反乱は短期間に鎮圧され、彼は無残に殺されていきます。

日本社会の公職の選挙が様々な意味で低水準であることに危惧を覚えています。これ以上ポピュリズムに踊らされ、悪巧みを黙認してはいけないでしょう。「密かな悪巧み」と「人心の操作」の共通する点は不誠実な振る舞いということです。地上で見えている顔と、地下に隠している顔が、まったく正反対です。この点で、第九戒「あなたは偽証をしない」と深く関わります。「あなたは(心を)盗まないだろう」を裏返すと、「あなたは誠実に生きるだろう」という神の期待が聞こえてきます。

さて、ガナブには「神の言葉を盗む」という用法もあります(エレミヤ書23章30節、1221ページ)。これは偽の託宣を述べる預言者たちを批判する言葉です。「神はこう言われている」と語っているけれども、実際は単なる自分の意見である場合、「神の言葉を盗む」行為として批判されます。これもまた不誠実な行為です。そして神の言葉を盗む行為は、「神の名を虚偽の目的で持ち運ばない」と語る第三戒の主題と深く関わります。自分の意見の根拠付けのために、「神(権威を持つ者)はこのように考えておられる」「正義はこれだ」と言わずに、「わたしはこう思う」と率直に語る方が、神にも隣人にも誠実な語り方となります。

その一方で、盗むことへの批判が他人の言葉や考案に向けられていないことも興味深いものです。いわゆる著作権について聖書は無頓着です。知的財産というものは私有物ではなく、公共のものであるということなのでしょう。実際、著作権という考え方があれば聖書という本は、ここまで分厚い本に成長しなかったことでしょう。マルコはマタイを著作権侵害で訴えていません。この大らかさは現代人も見習うべきかもしれません。著作権や特許権を認定する者たちが権力と富を得られることも副作用として問題だからです。また密かな抜けがけが得する世相もいかがなものかと思うからです。

盗まない生き方の第一は、誠実に生きることです。こそこそと陰で悪事を企んだり行ったりするよりも、公明正大に生きる方が人としてまっとうです。愚直であっても誠実に生きることが、今日の小さな生き方の提案です。加えて自らの愚直なまでの誠実さの裏返しとして、ポピュリズムを見抜くこともお勧めします。誠実な者だけが不誠実な者を見抜き、批判することができるからです。そして正義を振りかざす者たちへの疑いの眼を持つことが必要です。「国益」なるものは決して神ではありません。小保方さんを非難した人たちのふりかざした「正義」なるものは、現代人の持つ短い定規でしかないでしょう。

さて、ガナブの目的語として「人間」もありえます。人間を盗む行為、すなわち、第八戒を「誘拐の禁止」と考える解釈は100年ぐらい前に提唱され、一時代を築きました。有力な学説だったのです。現在は批判されることの多い解釈ですが、しかし、とても説得力のある、有意義な読み方です。わたしたちの視野を広げ、読み方の射程距離を伸ばすことができるからです。

出エジプト記21章16節の「人を誘拐する者」の直訳は、「人を盗む者」です。また、自分の兄弟から奴隷として売り飛ばされたヨセフという人は、自らの境遇を省みて、「わたしは盗まれた(新共同訳「無理やり連れて来られた」)」と語っています(創世記40章15節)。この二箇所はいずれもガナブという動詞を使っています。

「人を盗む」行為は、本来自由であるべき人間の「行動の自由」を奪うことです。そして自由は権利の言い換えです。現代の言葉でも、聖書の時代の言葉でもほぼ同じです。「行動の自由」ということは、「どこで何をしても良い権利」です(憲法第22条参照)。それはどんな人にも基本的に与えられています。だから国家によって、「何人も、いかなる奴隷的拘束を受けない」(憲法第18条)のです。財産権よりももっと根本的な権利です。

ヨセフのエジプトへの奴隷的拘束が、ヤコブ一家の子孫たちがエジプト人の奴隷となることのきっかけとなったことは興味深い事実です(出エジプト記1章1-5節)。聖書は巨視的に読まなくてはいけません。神は400年間も盗まれていた民を自由の身に解放し、「あなたは盗まない生き方をするに違いない」とおっしゃっています。彼ら彼女たちこそが体を盗まれることの辛さを知っているからです。

エジプトでの奴隷体験も、そして、敗戦による強制連行であるバビロン捕囚も、聖書の民が経験した「盗まれる」行為です。このように聖書の民は、しばしば大国から自分の体を盗まれ、行動の自由を奪われています。日本国家は、「従軍慰安婦」とされた女性たちを含め、炭鉱掘りなどの重労働をさせる目的で強制連行によって植民地住民などの人間を盗んだのでした。これは罪です。

また、見た目には強制性がなくても、大国は巧妙に労働力として人を盗むことができます。経済格差を利用するのです。ヤコブ一家が飢饉のためにやむなく「自分の意思で」、豊かなエジプトに行かざるを得なかったように、多くの人々が富める大国に出稼ぎに来ます。これは「経済的強制連行」であり、広い意味で人間を盗む行為です。だから、在日コリアンの人々に、「自分の意思で来たのだから出て行け」などと失礼なことを言ってはいけないのです。いわゆる「ジャパゆきさん」の問題も、この件に重なります。

強制連行だけが人を盗む行為ではありません。さきほど紹介した憲法18条は徴兵制反対の根拠条文です。「兵役は奴隷的拘束の一種である」とは、日本国政府の公式の解釈でもあります。第八戒と関連付けて言えば、国家権力は徴兵制によっても人間を盗むことができます。現に大日本帝国は赤紙一枚で、他人の人生を一変させていました。戦前の人権侵害を悔い改めて、日本国憲法は国家に徴兵制を敷かせないために18条を置いています。

徴兵制反対を趣旨とする18条の大きな意義は、隣の国と比べれば分かります。韓国は徴兵制の存在する国です。どんなに今が旬の売れっ子アイドルでも、二年間の兵役が義務付けられています。アイドルを国家に盗まれたファンの怒りはいかほどでしょうか。本人の悔しい思いや、所属事務所の損失はいかばかりでしょうか。

ところが18条があっても、抜け道は巧妙に用意されています。米国も日本と同じく徴兵制ではなく募兵制を採っています。強制性はなさそうに見えます。しかし、軍隊に入ることに特典を用意すれば、貧しい人はやむをえず「自らの意思で」志願していくでしょう。たとえば、大学進学のための奨学金給付や高収入の職業斡旋などです。米国志願兵の中に黒人など有色人種や最近移民した人々の率が多いのは偶然ではありません。これを「経済的徴兵制」と呼びます。

実際わたしの恩師である、アフリカ系アメリカ人のカーソン教授は、軍隊経験を持っています。本人曰く「大学院進学の奨学金取得のため」だったそうです。日本でも同様の仕組みを導入すれば、自衛隊入隊志願者は増えることでしょう。国家はさまざまな意味の徴兵制によっても、人間を盗むことができます。これは罪です。

つまり、他人の物を密かに移動するだけではなく、他人の心の操作だけでもなく、他人の行動の操作もまた、盗む行為であるということです。ガナブという動詞は旧約聖書の中で極めて広く用いられています。ここからわたしたちは盗まない生き方が何であるかを学びます。つまり、他人の行動の自由を積極的に認めることが、盗まない生き方となります。

およそ聖書の教えは教育的ではないことが多いと思います。子どもの行動の自由を全面的に認めたら社会に適応できなくならないでしょうか。家庭でのしつけも教育機関も不要となりはしないでしょうか。しかしここに神の国の原則があります。人間の行動については原則自由・例外規制ということが、第八戒の言わんとしていることでしょう。

今日の小さな生き方の提案のもう一つは、人間の行動について大らかになるということです。禁止したり、制限を設けたり、誘導したりしない。他人の体を盗まないことです。わたしたちはキリストによって自由とされたのですから、他人についても自由を尊重するはずです。