盛大な宴会 ルカによる福音書14章15-24節 2017年11月26日 礼拝説教

本日の譬え話の大筋は、マタイによる福音書22110節にも共有されています。ただし話の大筋だけであって、ほとんど別の話とも考えられるほど相違があります。また、外典のトマス福音書64節にも似ている譬え話があります。これらを総合すると、大筋の部分が広く口頭伝承で流布されていたのだと考えられます。中核になるイエスの言葉が口伝えで伝えられ、それを基にさまざまな地域の教会が主張を盛り込んだ「異本」を作成していったのでしょう。

元来の譬え話は次のようなものです。「ある人が宴会を催し、客を招待したところ次々に断られた。そこで元々招いていなかった人々を招くことにした。宴会の席は満たされたが、最初招かれた人は誰もいなかった」。この大筋に、マタイはマタイの教会の主張を、ルカはルカの教会の主張を付け加えていきます。この譬え話の場合は、それぞれの主張が強く盛り込まれたために、結果として二つの譬え話には多くの相違点が残されることとなりました。

わたしたちは、ルカとルカの教会が重視している点、すなわち、主の晩餐を軸にしながら「神の国の展開」を構想している点に注目します。教会はどこから来てどこへ行くのかを考えてみましょう。

先週に引き続いて、この譬え話は主の晩餐についての教えです。12節の「夕食の会」も、1617節「宴会」も、ギリシャ語では同じ単語デイプノンであり、この単語は主の晩餐を指す専門用語です(コリント1120)。また、15節「食事をする」も、1節の「食事」も、ギリシャ語では同じ表現「パンを食べる」です。「神の国」(1329節、1415節)である教会の礼拝中に、パンを食べる儀式である主の晩餐が、ここでは想定されています。

主の晩餐は、教会が催す盛大な宴会であるということになります。しかし、それは一朝一夕に出来上がったものではなく、次第に成長して現在に至っています。宴会の主催者の「ある人」(16節)・「家の主人」(21節)は神です。「ある人」の自宅が「神の国」であり、この「家の主人」から遣わされる「僕」(172122節)が天使や預言者等です。

最初家の主人は自宅に大勢の人を招いたのだそうです(16節)。先週の話から類推すると、この「ある人」は地域の有力者であり、その友人、兄弟、親類、近所の金持ち(112節)ら男性たちを招いたのだと思います。そのことは、次々に断った男性たちの理由や(1820節)、次に誰が連れて来られたかを読むと(21節)、裏付けられます。

「畑を買ったので」(18節)、「牛を二頭ずつ五組買ったので」(19節)、「妻を迎えたばかりなので」(20節)という理由が、欠席の理由として挙げられています。畑を買うことや牛を十頭買うことは、相当な財力がないとできません。結婚に関しても、ある程度自活できる財力は必要とされます。このことは現代の日本でも妥当します。女性が今よりもさらに就職できなかった古代のこと、男性に大黒柱であることがもっと期待されます。こうして、最初招かれた人々が富んでいる人、最低限経済的に自立している男性を指していることが分かります。なお、トマス福音書においては村を買う人が登場しているので、これはよっぽどの金持ち、または政治家です。

驚いたことに、最初に招かれた、富んでいる人は全員突然に断ったというのです(18節)。「断る」という言葉は、「言い訳を言う」とも訳せます(動詞パライテオマイ。田川建三訳参照)。そして、同じ動詞は、「失礼させてください」(1819節、新共同訳)という表現の中にも使われています。直訳は「あなたは私の言い訳を持て」です。「言い訳をお許しください」という意味でしょう。だからここでは、本当に畑や牛を買う用事があったかというよりも、最初は出席するようなことを言っていた人が「言い訳しつつ後で出席しないという心変わり」が批判されています。最初は「手伝う」と言った人が、後で考えを変えて手伝わない行為が、その逆よりも悪質です。

僕がすべての招待客からもっともらしい言い訳を聞かされ断られたことを報告すると、家の主人は怒ります(21節)。この怒りは当然、当日の土壇場でキャンセルした客たちに向けられたものです(17節)。

最初に招かれた人々はユダヤ人の中の有力者を譬えています。例えばファリサイ派や、ヘロデ派、サドカイ派など、政治的な力も経済力も持っている人々です。遡れば、ダビデ王朝の王たちもそこに含まれます。エズラ・ネヘミヤや、マカバイ王朝の政治権力者も含まれます。当初神は「この世的力」を持つ人たちによって、地上に神の国をもたらそうと考えたのです。

しかし、地上の権力者たちは力を預けられた途端に、神の国を作ろうとせず自分の国/支配を実現しようとしました。何かと言い訳をして、自分の都合を先にして、神の国を作ることは後回しにしました。本来神の国は、狼と羊が共に生きることができる世界、幼子と毒蛇が共存できる世界です(イザヤ書11章)。神にその構築という使命を授けられた者自体が、狼となり蝮となってはいけません。政治的メシアによる神の国建設という構想の弱点が現れています。事ここに至って、神の怒りは自分自身にも向けられます。メシアの務めをする相手を選ぶ段階で間違え、先に神の国に招いてしまったのは神です。

家の主人は考えを変えます。後悔し悔い改めたのです。町の住民で自分が今まで招いていなかった人々に目を向けます。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(21節)。

イエスの食卓において、この出来事が実現しました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(723節)。さらに、「連れて来る」というギリシャ語動詞エイサゴーについて深掘りします。この単語は新約聖書に11回用いられ、そのうちの9回がルカ文書に集中しています(ルカ3回、使徒6回)。ルカ福音書において、本日の箇所以外の2回は、イエスを連れて来る場面で用いられます(227節、2254節)。イエスは、貧しい人・心身に障害をもつ人・病をもつ人と同一視されています。イエスの食卓は、全員この世では弱い存在の者たちです。「わたしもまた飼い葉桶の主/十字架の主と同じく小さくされ弱っている」(コリント23節、青野太潮訳参照)と全員が言いうる宴会です。目の見えない人、足の不自由な人が同じユダヤ人であってもエルサレム神殿での礼拝を禁じられていたことの裏返しが、イエスが催し、イエスが給仕する宴会です。

神は神の子イエスを人の子メシアとして遣わし、全員が平たい関係の神の国を、貧しい人を招くことによって実現しようとしました。貧しい人こそ選ばれた幸いなる神の子であるなら、全ての人は等しく人の子になりうるという救いが成り立ちます。そして政治権力や経済力を持たない人々が主導する集団は、「互いに仕える」ことに向いているのです。

ただし、このイエスによる「神の国運動」は基本的にユダヤ社会の中だけの民族的な集団です。「町の広場や路地」(21節)にいる貧しい人は、町の中、すなわちユダヤ人社会の中の貧しい人を指しています。イエスはいくつかの例外的行動はありますが、基本的にユダヤ社会の中で生きかつ死にました。

神の国は、ユダヤ人の貧しい人・体の不自由な人だけでは満席にはなりません。「御主人様、仰せの通りにいたしましたが、まだ席があります」(22節)。神である家の主人はさらに発想の転換をはかり、考えを展開させていきます。ユダヤ人にこだわることもない、貧しさと障害の有無だけが問題ではないと。

ここにはキリストがよみがえらされ、イエスの霊が降り、ユダヤ・サマリアから始まって非ユダヤ人世界に広がる神の国・教会の歴史が映し出されています。「通りや小道に出て行き、無理にでも人を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(23節)。田川の言うように「通りや小道」を、町の外にある「街道や囲い地」と解します。当時の農民たちは町の外にある畑に近い場所にも居住していたからです。そして、町の外は非ユダヤ人社会の譬えです。「非ユダヤ人であれば誰でも」というように、貧富の差・障害の有無・性差・年齢差が条件となっていません。

ユダヤ社会・ローマ社会の政治権力によって殺された方が、神によってよみがえらされました。神はご自分の霊でありイエスの霊である聖霊を遣わしました。そのことによって、ユダヤ人の貧者だけの神の国ではなく、全ての人が加わることができる神の国ができました。復活のイエス・霊の体とされたキリストと出会う主日礼拝において、もはやユダヤ人もなくギリシャ人もなく、男と女もなく、奴隷も自由人もなく、主の晩餐を囲むことができるのです。この非ユダヤ人伝道を主導し、精力的に従事したのが、ルカの友人パウロです。

先ほど紹介した21節「連れて来る」(エイサゴー)は、同じルカが書いた使徒言行録にも6回登場します。そのうち3回はパウロを連れて来る場合に用いられます(98節、2137節、2224節)。ここでパウロは、ルカ福音書の描く飼い葉桶/十字架のイエスと同一視されています。またエイサゴーは、非ユダヤ人をエルサレム神殿に連れて来る場合に2回用いられています(212829節)。ここで非ユダヤ人は、この譬え話の町の外にいて無理やり連れて来られた人々と同一視されています。

障害をもつ人と並んで非ユダヤ人も女性も子どもも、エルサレム神殿礼拝を禁じられていました。パウロ/ルカの系列の教会では、排外的なエルサレム神殿礼拝に対峙するかたちで、民族差別・障害者差別・性差別・年齢差別に苦しむ人々や、それを乗り越えようとした人々が主の晩餐に集っていました。これが新しいイスラエルであり、神の国なのです。こうして神の国は、一つの民族国家という枠組みから解き放たれ、全世界に散らばる教会間のネットワークとなりました。聖霊が霊的礼拝を行う教会を生み、聖霊が教会間をつなぎます。霊的礼拝とは、さまざまな人々を包むことができる礼拝であり、すべての人々にとって有益な情報、つまり救いの福音(無条件の赦し)を発信する礼拝です。

皮肉なことに「先の人で後になる者もある」(1329節)のです。その人々は、政治権力や経済力をもった民族主義者を指します(25節)。教会は力を濫用し非寛容な人には寛容であるべきではありません。

神の国の歴史と展開は、どこを目指すのでしょうか。フィリピ教会員だったルカは、世の終わりの礼拝とそこでの晩餐を常に希望していたと思います(フィリピ2611節)。イエスを実際に囲むその祝宴で真にすべての差別は克服されます。その日まで教会は晩餐で福音を告げ知らせなくてはいけません。

今日の小さな生き方の提案は、霊的な礼拝を続け、霊的なネットワークを喜ぶということです。わたしたちは子どももなく大人もなくという礼拝を毎週の晩餐を中心に作っています。子どもも配餐する主体です。ただし「招いていない人」を絶えず探る努力も必要です。他の多文化共生の主題もありえます。東京北教会は民族・言語の多様性に絞ってプロジェクトを準備しています。そのネットワークに繋がることで、わたしたちはお互いを補い合えます。