真理の霊 ヨハネによる福音書14章15-24節 2014年6月8日礼拝説教

本日はペンテコステ(聖霊降臨祭)の日です。イースターから七週間後の日曜日を教会暦ではペンテコステと言います。キリスト教三大祝祭日の一つです。その趣旨は、教会の誕生を祝うということにあります。十字架・復活・昇天を経て、イエスの復活のからだは地上からいなくなりました。「イエスを見れば神を見たことと同じとみなす、だから神を見たい者はイエスを見よ」という恵みの時期は終わりました。見ないで信じなくてはいけない時代となりました。そこに教会の存在意義があります。教会は「キリストの体」というあだ名を持っています(Ⅰコリ12章)。見えないキリストを教会が見せなくてはいけません。

イエスが一度目に来た時と、二度目に来る時の間である「中間の時代」にわたしたちは生きています。中間時代に神を見る方法は二つです。一つは聖書を読むことです。そしてもう一つは、聖霊(神の霊・イエスの霊)によって神を見るということです(ヨハ14:19)。最初に教会を建てたイエスの弟子たちは、聖霊によって神を見て神の力を受けました(使1:8)。それまでイエスと離れて寂しい思いをしていましたが、不思議な風がびゅうっと吹いて、復活のイエスの息を吸い込んで(20:22-23)、イエスの周りに座るという交わりをつくろうという決意を固めたのでした(マコ3:34)。聖霊に導かれた教会の交わりを見る人は、神を見るのです。キリストの体らしく、互いに愛し合っている人々を見て、神を見ます。その愛が教会からあふれ出し、信者の日常生活で愛に触れると、人々はその人を通じて神を見ます(ヨハ14:15・21)。中間時代は聖霊の時代です。ここに教会の存在意義があります。世の終わりになると教会はその使命を終えます。すべての人が戻って来たイエスを再び見るからです(18節)。

教会暦では今日から「三位一体節」という季節が始まり、アドベント(待降節)まで約半年続きます。三役そろい踏みと言いましょうか、それとも横綱土俵入りと言いましょうか、ペンテコステは神・イエス・聖霊という三者が出そろった時でもあります。三位一体節を中間時代と重ね合わせると、アドベントは二重の意味を持ちます。一度目の来臨を記念し、二度目の来臨を希望するという意義です。聖霊降臨祭の日、ヨハネ福音書で今までほとんど登場していない聖霊という神について、今日は申し上げます。

「神は霊である」(4:24)とあります。神の霊でありイエスの霊である聖霊は、神そのものです。霊であるということは、見えない・聞こえない・触れられないということです。しかし確実に居る/有るのです。それは関係に似ています。人と人との関係は見えませんが確実にあります。霊であるということは、限りがないということです。霊である神は全世界を覆っています。この意味で世界中どこにでも神は居ます。全世界を創り・覆い・保つ霊なる神は大いなる方です(創1:2)。それと同時に、霊である神はわたしたち一人一人の中にも居ます(ヨハ14:17後半)。すべての人は神の家です。この意味で、神は細部に宿ります。

さてこのような聖霊の神を、今日の聖句の鍵語に従ってもう少し詳しく考えてみましょう。16節によれば、神がイエスとは「別の弁護者」を遣わして、その弁護者は弟子たちと永遠に一緒にいるようになると言われています。17節によれば、それは「真理の霊」です。この別の弁護者・真理の霊が聖霊の神のことです。わたしたちはこの言い方から、聖霊の神がどのような方であるかの手がかりを得ます。

「弁護者」と訳されている言葉はギリシャ語の「パラクレートス」という名詞です。裁判の際には「弁護士」という意味になる単語なので、新共同訳はその意味を強調して翻訳しています。その意義は、キリスト者に対する迫害の場合に重みを増します。ヨハネ福音書の著者の時代、教会へのユダヤ教徒からの激しい迫害がありました。著者が「ユダヤ人」と書く時の怒りは、教会を弾圧しユダヤ人社会から締め出そうとするユダヤ人権力者たちへの憤りに基づいています。

誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできません。言い換えれば聖霊は、正義の神への弁明を罪びとたる信者の内側から教える神です。そして聖霊は信者が罪びととして裁判所に引き立てられたとき(それはユダヤ全土にあったユダヤ教徒の会堂で行われていた異端審問的な裁判です)、何を申し開きすべきかを告げる神です。このような聖霊の働きは弁護士としての仕事です。

イエスに従っていた時、弟子たちはイエスを弁護士として頼っていました(8章)。イエスがいなくなった後に「別の弁護者」が立てられるということは、同じ働きをしてくれるイエスの霊が後から遣わされるということです。誰も分かってくれなくても、世間からはじかれても、聖霊である神だけは信者をかばってくれる、それが弁護者という訳のうまみです。

ところで、パラクレートスにはもう少し一般的な意味があります。それはもともと「(助けを求める誰かから)呼びかけられた者」という意味で、そこから転じて「助け手」と訳されます。口語訳が「助け主」と訳したのは、こちらの意味合いを強調したかったからです。この意味も旧約新約を貫いて全聖書的に重要です。ギリシャ語のパラクレートスが、ヘブライ語のエゼル(助け主/助け手)の翻訳であり解釈であるという理解に立つからです。ヘブライ語のエゼルは神のあだ名です(サム上7:12)。そして、配偶者を指す言葉でもあります(創2:18「助ける者」)。困っている人を助け救い出す神はエゼルであり、結婚相手(性別問わず、同性婚であっても)という最大の協力者はエゼルです。

このエゼルに「呼びかけられる者」という意味を与えて、著者ヨハネはパラクレートスという単語を訳語として選びました。翻訳interpretationとは解釈ですinterpretation。名前を呼ぶ人格的な関係が、人と神との間にはあるということを示すための翻訳でしょう。神は人間に呼びかけられることを望んでおられます。「ナザレのイエスよ、わたしを憐れんでください」と、素直に呼びかけられることを望んでおられます。「アッバ、おなかがすいた、たまごを食べたい」と呼びかけられることを望んでおられます。そして「神さま、助けてください」と呼ばれたら喜んで救い出してくださいます。

聖霊の神はわたしたちを助けるために常に共にいます。それがパラクレートスという呼び名から示される神の特徴です。

しかし、呼びかけられる者というだけでは、受動的に過ぎます。呼ばれなければ何もしないかのような印象があるからです。もっと積極的な言い方として「真理の霊」があります。6節において、イエスは道・真理・命そのものであるとすでに言われています。聖霊は、そのイエスの霊であり、イエスの代わりの者です。20節の「わたしもあなたがたの内にいる」とあるのは、聖霊がイエスの代わりに居るという意味です。だから、聖霊は信者の内に居て、イエスのように道=生き方を示します。真理の道を示します。この世界における正義を教えます。その生き方に永遠の命の輝きがあるような真理の道です。

今日の箇所で真理の道は、「掟」とも呼ばれています(15・21節)。この単語は、13:34にも登場していました。掟の中身は、「イエスに倣って互いに愛し合いなさい」という命令の言葉です。イエスに倣うことを軽やかに行うにはイエスの霊を内側に宿す必要があります。聖霊はわたしたちの心に働きかけて、悪さ・弱さを抱えているわたしたちにも、仕えるということができるようにしてくれます。わたしたちが考える前から、感じる前から、聖霊はわたしたちの良心に働きかけます。聖霊の神は、わたしたちの良心の主です。「風=霊はそれが思うところに吹く」(3:8)。わたしたちの意思ではなく、神の意志を行うように、聖霊はわたしたちの良心を導きます。

聖霊はわたしたちに共感を与えます。困っている人にかわいそうだという感情を与えます。聖霊はわたしたちに寛容を与えます。多様な人々やいのちがある社会が良いという思想を与えます。共感と寛容が、罪深いわたしたちから世に出てくるときに、わたしたちの内にイエスの霊・神の霊がおり、聖霊において神と一体化していることが示されます(21節後半)。この聖霊との神秘的な一体感こそ、イエスを愛する行為・神を愛する行為です。互いに愛し合うことによって隣人を通してわたしたちはイエスと神を愛しているのです(21・23節)。

この感性と思想はこの世と鋭く対立することがあります。なぜなら、この世界は共感を持たないことが良いことだと教えているからです。受験戦争によって共感を麻痺させられた世代がすでに親の世代です。競争原理と弱肉強食が刷り込まれています。そこにおいて共感は悪徳です。また暗記中心の学習は問題の解答を教えますが、葛藤の解決を教えてくれません。さまざまな人がおり、人の数だけ葛藤がありうるというのが社会です。個人でも国家でもそうです。短絡的に正邪を判断し切り捨てる非寛容な風潮に歯止めがかかりません。非寛容な社会にあって寛容であることは悪徳です。安倍政権の暴走を支えているのは、結局わたしたちです。

イスカリオテでない方のユダが「この世に、ご自身を現そうとなさらないのはなぜか」とイエスに問います。カリオテ(キルヤト)の人・民族主義者ではないユダが問うということは、共感と寛容が主題となっていることを示唆します。民族主義は共感・寛容を斥けるからです。イエスの答えは相変わらずこんにゃく問答で答えになっていません(23-24節)。 〔余談ですが、23節の後半は「わたしたちは神のところに行き、一緒に住む」と訳すべきでしょう。3節と同趣旨の発言と解す。田川訳参照〕 ただしこの問いに対する答えは、すでに17節で言われています。「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」。

イエスが共感・寛容という神の愛を現そうとしていないのではありません。実際、イエスはヨハネ福音書においてすでにその生き方において神の愛を現しています。そうではなく、この世が見ようとも知ろうともしていないのです。そして神の愛を示す神の子を抹殺しようとしているのです。なぜならこの世は、困っている人を無視し(反共感)、排他的な風潮をあおっているからです(非寛容)。

このことは、イエスの弟子たちが聖霊によって愛を現しても、この世がそれを無視したり、それに反発したり、それを抑圧したりするということでもあります。福音というものは本質的にこの世と対立するものです。この世の本質が反共感と非寛容にあるからです。教会というものは、キリストの体である限り、この世と対立するものなのです。この世は分断を促し教会がつながりを作り出すからです。

今日の小さな生き方の提案は、聖霊の神を信じることです。そうして素直に助けを呼ぶことです。わたしたちはひとりぼっちではないのです。また、聖霊を吸い込み、内に宿し、良心に従って共感と寛容を身につけることです。互いに仕え合い、キリストの体となることです。この世と対立しても、ここに価値があると信じて生きることです。神とつながり人とつながり合いましょう。