神のなさること 創世記40章1-11節 2019年12月29日礼拝説教

1 これらの出来事の後、エジプトの王の献酌官と調理官が彼らの主人に対して(すなわち)エジプトの王に対して罪を犯すということが起こった。2 そしてファラオは二人の宦官に関して――献酌官たちの長に関して、また調理官たちの長に関して――怒り、3 彼らを死刑執行人たちの長の家の監視の中に与えた。(すなわち)監獄へと、ヨセフがそこに繋がれている場所(へと)。4 かの死刑執行人のたちの長はヨセフを彼らと共に(いるように)任命し、彼は彼らに仕え、彼らは日々監視の中に居た。

 ヨセフは死刑執行人たちの長ポティファルの筆頭執事(ナンバーツー)から、「王の囚人」となりました。エジプトの王ファラオを不機嫌にさせた高官たちが拘留される「監獄(直訳は円形の家)」に、ヨセフは入れられます。以前申し上げたように、それはポティファルの配慮の結果でもあります。彼はヨセフに死刑執行をせず、逆にヨセフを私刑からも守っています。監獄はポティファルの家に付設されていました(3節)。ポティファルは監獄の管理者であり、「監獄の長」(39章21節)の上司でもあります。

ヨセフは監獄の中でも、出世をして監獄の長に気に入られすべての囚人のまとめ役となります。ナンバーツーが彼の天職です。その様子を完全に把握しながら、ポティファルは二人の宦官を王の囚人として監獄に拘留し、ヨセフに彼らの世話をさせます。その二人も、王宮の高官です。一人は献酌官たちの長です。献酌官は、「酒を注ぐ人」という意味の言葉です。別に酒を注ぐことに特別な能力が必要とされているわけではありません。むしろ本務は毒見役です。献酌官は最も王を暗殺しやすい人物とも言えます。杯に毒を盛ることが簡単だからです。もしも自分以外の人物から毒が盛られていたら王よりも先に殺される人物であり、王からの絶大な信頼(「この人は絶対に自分を殺さない」という信頼)を得ている人物。王の最側近が、献酌官たちの長です。官房長官や、総理大臣秘書官といったところでしょうか。

ちなみにネヘミヤはユダヤ人でありながら、ペルシャ帝国アルタクセルクセス王の献酌官にまで上り詰めています(ネヘミヤ記2章)。王の最側近だったからこそ、エルサレム城壁の修復というネヘミヤのライフワークを王も無下にはできませんでした。古代社会において、献酌官という職務がどれほど重要だったのかを教える記事です。つまり献酌官は国家の政策について王に相談し、自分の考える政策を実現することすらできるのです。

もう一人の宦官は調理官たちの長です。原意は「パンを焼く人」。こちらは実際のシェフ、パン焼き職人であったかもしれません。美味しい料理を作る人です。しかし、献酌官と同様に毒見役も兼ねています。この意味で、ファラオの信頼の厚い人物でなければ就けない仕事です。

この二人が「宦官(セリース)」であったというのです。この単語はポティファルについても用いられていますから、ポティファルの役職を宦官と訳すならば、この二人にもそうしなくてはいけません(39章1節)。新共同訳は「宮廷の役人」としています。どちらでも良さそうですが、宦官の方が王の信頼の高さとその人物の能力の高さを示すので良いと考えます。古代社会は身分制社会です。身分が低いのに能力が高い人、しかも出世を諦めない人は、自ら宦官になるしかありませんでした。それによって王の信頼をかちとるのです。

死刑執行人たちの長ポティファル、献酌官たちの長、調理官たちの長、この三人を宦官と想定するときに、彼らの人生の奥行が広がります。三人にはさまざまな苦労があったことでしょう。しかしそれらを乗り越えて、それぞれは自分の能力によって、古代エジプト国家の出世の頂点を極めています。彼らは「エジプトの夢Egyptian Dream」を信じ、実現させた者たちです。誰にでも立身出世のチャンスがあるということです。

ポティファルはあえて、献酌官たちの長と調理官たちの長の世話をヘブライ人奴隷ヨセフに命じました。ヨセフはポティファルに仕えたように、この二人に仕えます。39章4節「仕える」と40章4節「世話をする」は同じ動詞であり、神に奉仕するという意味でよく用いられます。ヨセフは三人の宦官に同じように仕えます。三人の宦官は、ヨセフを同じように扱います。そして三人は気づきます。ヨセフには非凡な能力がある。彼らはそれぞれ一流の行政官であったので、気づくことができます。そして、何とかヨセフを能力に見合って出世させたいと思うようになるのです。ポティファルは、二人の逮捕・拘留の理由を知っています。大したことのない権力者の気まぐれで監獄に来たのでしょう。だから、この二人はすぐに釈放され復職すると見抜いています。その際に、ヨセフのことを思い出し、ファラオに紹介してくれれば、ヨセフにも「エジプトの夢」が訪れるかもしれません。もしポティファルが妻の一件でヨセフに対して心底怒っていたら、このような親切をヨセフにしなかったはずです。もしかするとポティファルは自分でヨセフをファラオに紹介しようとしていた可能性すらあるように思います。ポティファルの願い通りヨセフは数日の間で二人と信頼関係を築くことに成功しました。

5 そして彼ら二人は各人彼の夢を一つの夜に見た。各人は彼の夢の解釈にしたがい……。エジプトの王に属し、かの監獄の中に繋がれている献酌官と調理官。6 そしてヨセフが彼らに向かって来、彼らを見た。そして見よ、彼らは困惑している。7 そして彼は、彼の主人の家の監視の中に彼と共にいるファラオの宦官たちに尋ねた。曰く「なぜ今日あなたたちの顔は悪いのか」。8 そして彼らは彼に向かって言った。「わたしたちは夢を見た。そしてそれを解釈する人がいない」。そしてヨセフは彼らに向かって言った。「諸々の解釈は神に属するのではないか。どうかあなたたちは私に説明せよ」。

マタイ福音書のヨセフは夢の中で天使に導かれました。創世記のヨセフは、他人の夢によって人生が導かれて行きます。創世記のヨセフは37章まで、自分自身夢を見て、それをそのまま他人に語る人でした。しかし、40章からのヨセフは異なります。他人の夢の解釈をする人となるのです。

本日は二人の宦官の夢の内容と、ヨセフによる解釈の内容については深追いをしません。それは来週にいたします。むしろ今週は、二人の宦官とヨセフがすでに信頼関係を結んでいることや、そもそも「夢の解釈」とは何かということについて申し上げます。「解釈」という言葉は、ヨセフ物語にしか用いられない鍵語です。

ヨセフは毎日行っているように、二人の宦官のところに来て、日常の世話をしようとします。ところが、彼らの顔がいつもと違うことに気づきます。37章までのヨセフは、兄弟たちの顔の変化、表情の変化にまったく気づかない人でした。39章以来ポティファルの家で執事として仕事をしていくうちに身についていった能力です。昨日まで機嫌よく自分の出世話をしていた二人が、困ったような表情を浮かべていることに気づき、ヨセフは心配をします。

よく考えたらヨセフには二人を心配する理由はありません。どちらも「王の囚人」として監視されている身です。「なんで自分が新参二人の世話をしなくてはいけないのか」と考えて手を抜いても良いのです。しかしヨセフは主人ポティファルに仕えるように二人に仕えます。仕えることの第一歩は相手の顔を見て、大丈夫かなと心配することです。

5節は非常に構文が難解です。語順のままにすると私訳のようになります。カタコトで何となく意味が通じる感じです。著者は二人の困惑を一文で表現しようとしているのだと思います。彼らは二人で同じ夜に別々の夢、しかし、よく似た構成の夢を見ました。これは決して偶然ではない。これには必ず隠された意味があるに違いないと話し合っていたのです。ところが問題が生じました。解釈する人が、この監獄の中にいないということです。

彼らは高級官僚です。当時のエジプト社会には、夢の解釈に基準があり、夢解釈を職業とする者がいて、身分の高い人はその人々を雇っていたそうです。つまり二人の宦官には、それぞれお抱えの解釈者がおり、普段は夢の解釈に困ることはなかったのです。占星術の学者と似た事情です。星の発生や運行には意味がある。それをある基準で解釈することができると考えられていたわけです(41章8節も参照)。

この事情と、ヨセフの発言「夢は神に属する」とが関係しています。解釈されないままの夢は単なる「異言」です。その人にとっては意味があるかもしれませんが、この世界の出来事として実現しません。しかし、夢がいったん解釈されるとそれは「預言」となります。この世界に実現する「神の言葉」となるのです。この意味で夢は世界に出来事を起こす神に属するのです。

たとえばヨセフが、「自分の束に向かって兄弟たちの束が拝んだ」という夢を見たり、「自分に向かって太陽と月と11の星が拝んだ」という夢を見たりして、その通り語ったとしても、解釈がないならば単なる夢として何も起こりません。しかし、兄弟たちや父ヤコブが、「わたしたちがあなたを拝む時が来るということか」と解釈した時に、それは現実の出来事となります。

ヨセフは専門的職業的な解釈者ではありません。しかし彼は自分が預言者であり、夢を解釈できると確信しています。その解釈はエジプト流の「客観的基準」に従うのではありません。このような出来事が、愛と正義を貫く神の名において起こるべきだという「主観的確信」に基づいて語るのです。預言者の解釈に従い、各人の生き方や世界の進み方が決まっていきます。解釈をするということは、歴史を創り出していくことです。それが預言です。曽祖父母のアブラハム・サラ以来、この家族はヘブライ的預言者の家系です(20章7節)。

9 そして献酌官たちの長が彼の夢をヨセフに説明し、彼に言った。「私の夢の中で、そして見よ、ぶどうの木が私の面前に(あった)。10 そしてぶどうの木に三本のつるが(あった)。そしてそれは花が咲く時に生育した。その芽。その房が、ぶどうの実が成熟した。11 そしてファラオの杯が私の手の中に(あった)。そして私はぶどうの実を取り、それらをファラオの杯に向かって搾り、その杯をファラオの掌の上に与えた」。

 献酌官はヨセフを信頼し、慌て気味に矢継ぎ早の説明をします。調理官に一度言っているので適当に省きながら、早口で語っているように原文は読めます。そこにも三人に信頼関係が伺えます。果たしてヨセフの解釈やいかに、この続きはまた来週。

 今日の小さな生き方の提案は、ヨセフのように解釈する人に成長ということです。自分の見たこと・聞いたこと・体験したことを、ただ語るのを止める。客観事実の忠実な再現は、歴史・生き方を動かすものではありません。むしろ、自分の主観を積極的に混ぜて、神ならば何を起こすのかを想像してこの世界の出来事を解釈していくのです。どんなに小さなことにも何か意味があります。ヨセフはさまざまな困難に直面して預言者となっていきました。夢を見る者が、夢を解く者となったのです。その成長が他人と自分の人生を切り開きます。