神の山 ルカによる福音書9章28-36節 2017年4月2日礼拝説教

一昔前の呼び方で言えば「変貌山」の出来事が、今日の箇所です。粗筋は簡単です。イエスが三人の弟子(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れて山に登ったところ、旧約聖書の預言者であるモーセとエリヤに出会った、その際にイエスの見かけが変貌したというものです。そしてペトロがとんちんかんなことを提案した後に、イエスが神から「お前はわたしの愛する子である」というお墨付きをいただくという結末です。マルコ福音書を真似て、ルカ福音書にもマタイ福音書にも掲載されています(マルコ9章2-8節、マタイ17章1-8節)。

物語の筋は単純ですが理解は難しい。そもそも変貌山の物語が何を伝えたいのかについては、ユダヤ人の宗教伝統を知らないと理解しがたいものです。まず、その点の共通理解を得たいと思います。その後にルカ福音書の力点について申し上げ、現代のわたしたちにとって変貌山が何の意味を持つのかについて説明をいたします。

ユダヤ人にとって山は神に出会う場所です。山の頂点は、天と地の結節点です。「山で神は見られる」のです(創世記22章14節。「ヤーウェ・イルエ」の直訳は「主は見られる」)。出エジプトの指導者モーセはシナイ山という山で神に出会い、そこで神から律法を授与され、そこで神とイスラエルは契約を結びました(出エジプト記24章)。聖書の神は山の神であり、シナイ山(ホレブ山とも呼ぶ。同3章1節参照)やシオン山(エルサレムのある丘)は「神の山」なのです。

注目すべきは次のような記述です。「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた」(出エジプト記24章15-16節)。変貌山の物語ではイエスがモーセの役回りを果たしていることに気づきます。「栄光」(31節)や「雲」(34・35節)は、神がそこに居られるということの遠回しの表現です。モーセとイエスは神に出会ったし、雲から特別に呼びかけられることによって神と親しい関係にあることが分かるのです。

さらにモーセは神と面と向かって話し合うと顔が輝くという現象が出エジプト記34章29-35節に記されています。イエスの顔の様子が変わり、衣服が白く輝いたことは、神と面と向かって話し合っていたということの表現です。

イエスが神と出会っているということをユダヤ人である三人の男弟子は察知いたします。彼らが恐怖したのは、神と出会ったという畏怖の念です。そしてペトロのとんちんかんな言葉も、神との出会いから説明できます。「仮小屋」(33節)と訳されていますが、「天幕」のことです。天幕は移動式神殿です。「臨在の幕屋」または「会見の幕屋」とも呼ばれるように、大祭司はそこに降りてくる神と出会えると考えられていました(出エジプト記25-30章)。そして出エジプト記33章7-11節によれば、モーセは自分用の会見の幕屋を所持していたようにも読めます。だから、「モーセ用の天幕」という考え方がペトロにあって、それを応用するかたちで「イエス用の天幕」と「エリヤ用の天幕」があると良いと、ペトロは考えたわけです。

マルコ福音書は男弟子(特にペトロ)に厳しい筆致で有名ですから、ペトロ批判のために変貌山を用いています。しかし、ペトロの手紙二1章16-18節によれば、変貌山の出来事はペトロにとって名誉なことがらとして捉えられています。ペトロの反応は決してとんちんかんなものではなく、ユダヤ人にとってありきたりの感覚を映し出しています。

要するに、「イエスは第二のモーセである」ということを変貌山の物語は伝えたいのです。ユダヤ民族にとっては、神の救いの仲介者です。神から特別に選ばれ、神の使命を受けて派遣され、出エジプトという奴隷解放を成し遂げたメシア(民族の救い主)です。モーセ自身が、「自分のような預言者が登場するので、彼に聞き従わなければならない」と申命記18章15節で予告しています。イエスこそモーセが預言したモーセ以上の預言者、預言者以上の方という主張が、「これに聞け」(35節)という引用に表れています。

そして「これはわたしの子」(35節)という神からの呼びかけは、イエスのバプテスマの時の神からの呼びかけ「あなたはわたしの愛する子」と対応しています(3章22節)。バプテスマの時に使命を与えられたイエスは、神の山で新たに使命を与えられます。そこに、モーセだけではなくエリヤが同席している意味があります(30節)。モーセが神と出会った「神の山ホレブ」で、エリヤは神と出会います(列王記上19章8節)。その時エリヤはひどく衰弱し、絶望の中にありました。しかし、神の山で神に呼びかけられ、神と出会い直し、神から新しい使命を与えられて山を降りていくのです(同9-21節)。変貌山が告げたいことは、神と出会う者は新たに使命を与えられるということでもあります。人間は新たに生まれ変わり、変貌を遂げるものです。神との出会いや神からの使命にはそのような力があります。

ルカ福音書はマルコから受け継いだこの変貌山の物語とその主張を、さらに補強していきます。イエスは第二のモーセであり、それ以上の方であるということを証明しようとします。そのことは、イエスが授けられた使命が、モーセよりも大きいからです。以下、ルカにしかない記述を中心に、ルカ教会の大切にしていたことが、現在のわたしたちにとってどのような意味があるのかを、変貌山の物語を通して申し上げます。

まずルカはダブルサンドイッチを作ります。「イエスとは誰か」(7-9節)、「飢えた者を養う食卓の主」(10-17節)、「イエスは神のキリスト」(18-20節)、「十字架と復活の主」(18-27節)、「イエスは神の子」(28-36節)という物語には、一貫してイエスがキリストであるという主題が流れています。「エリヤや昔の預言者の生まれ変わりなのか」という問い(8・19節)に対する最終的な答えが、変貌山の物語です。エリヤでもなく、最大の預言者モーセでもなく、「預言者以上の者(7章26節)」・神の子であるという答えです。なぜなら、イエスはエリヤとモーセと同時に居るからです。別人の証拠です。エリヤとモーセは二人一組で消え、イエスだけが「選ばれた者」として残ります(35節)。二人よりも優れているからです。ここに、「イエス・キリスト、神の子、救い主」というルカ教会の信仰告白があります。

こう考えると、モーセとエリヤが話し合う内容の意味が分かってきます。ルカだけが、「二人は・・・エルサレムで遂げようとしておられる最期(エクソドス)について話していた」(31節)と記述しています。この「最期」(終曲、出口、出エジプト)は、十字架だけではなく復活・昇天も含みます。モーセとエリヤがどちらも通常の仕方で他界していないことは、復活の出来事を彼らが話し合っていたことを示唆します(申命記34章6節、列王記下2章11節)。またこの「最期」は、エルサレムでの聖霊降臨、教会の誕生までも、考えようによっては含み得ます。そこまで含めた「新しい出エジプト」があるからです。ルカ文書がエルサレムという町を非常に重視していることも根拠となります(24章33節、使徒言行録1章4節、同2章5節、同15章2節)。

出エジプトの指導者モーセに「新しい出エジプト」を語らせることによって、十字架・復活の予告をしたイエスが(22節)、「新しい出エジプト」をなしとげる神の子・救い主であることを補強しています。「新しい出エジプト」はユダヤ人だけを解放するのではなく、すべての民の救いとなります。教会においては、もはやユダヤ人もギリシャ人もないからです。

イエスの変貌は、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの変貌と関係があります。ルカ福音書だけは、「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」という順番ではなく、「ペトロ、ヨハネ、ヤコブ」と記します(28節。なお8章51節も。マルコ9章2節参照)。ヤコブとヨハネは同じ「ゼベダイの子」であり、ヤコブはヨハネの兄と考えられますから、ルカだけが長幼の序を乱しています。ここには、「ルカ福音書の続編である使徒言行録を見よ」という指示があります。兄ヤコブは十二人の中で一番早く殺され、使徒言行録の中で影が薄い人物です(使徒言行録12章2節)。それに対して、弟ヨハネはペトロと匹敵する大活躍をしています(同3-4章、8章14-25節)。使徒言行録を書いたルカの教会にとって、ヨハネの方がヤコブより「上」にあったのでしょう。

使徒言行録は弱虫だった弟子たちが変貌を遂げ「使徒」となって教会を建て上げていったことを記す「教会史」です。その代表が、ペトロでありヨハネなのです。彼らの弱さは、「眠り」(32節)に象徴されています。「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると・・・」と訳されていますが、「ペトロと仲間はぐっすり眠っていた。彼らが目を覚ました時に・・・」と訳すべきでしょう(田川建三、岩波訳、RSV等)。彼らはイエスが祈っているという肝心な時に(28-29節)、失礼なことに眠り込んでいたのです。

この肝心な時に眠り込む弱さは、ゲツセマネの祈りの場面でも露わにされます(22章39-46節)。眠りは、人間的弱さの象徴です。わたしたちにも悪気はなくても間違えたり、結果として人間関係を悪くしてしまったりすることがありえます。その類の弱さです。弱い弟子たちはイエスの十字架刑を前に、逮捕の時点でイエスを見捨てて逃げ去り、イエスとの関係を否定しました(同54-62節)。この態度は、「弟子たちは恐れ」(34節)、「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」(36節)と一致しています。

福音書では「弱い弟子」が、使徒言行録において「強い使徒」として生まれ変わるということがルカ文書全体の主張です。変貌山の当時、沈黙を守っていた者たち、つまりイエスとイエスの言葉を恥じていた者たちが、復活のイエスの霊をいただいた後には、「信仰を捨てよ、教会を閉じよ」という公権力の圧力に対して、敢然と立ち向かったのです(使徒言行録4章19-20節)。

そして当初は狭いユダヤ民族主義者だったペトロもヨハネも、サマリア人や非ユダヤ人に対する差別意識を、キリストの福音を宣べ伝える中で克服していったのでした(使徒言行録10章)。モーセより偉大な救い主は、ユダヤ人だけの救い主ではないからです。信仰告白は、日々自分の十字架を背負い、「イエスが神のキリストである」と言い続ける最中に変貌し、拡大していくものです。

このすばらしい福音を告げ知らせるという使命があったから彼ら彼女らは大胆な変貌を遂げることができたのでしょう。

今日の小さな生き方の提案は「変わること」です。この「神の山」に集まり、キリストの栄光に接して礼拝しているすべての人に向けて、変貌山の出来事は「変わること」を薦めています。キリストの栄光を反射して生きる変化が求められています。それはイエスや使徒たちのように勇気と寛容の精神を持つことです。太く広い心への変化です。弱く狭いわたしたちの心が、十字架と復活のキリストを信じる時、聖霊が内に宿る時、「イエスは神のキリスト」と告白する時、教会を作り上げようとする時、太く広く変えられます。それこそ、この邪まな曲がった時代を生き抜く力となります。