神を愛するということ 申命記6章4-5節 2021年6月13日礼拝説教

【ヘブライ語】

4 あなたは聞け、イスラエルよ。ヤハウェはわたしたちの神。ヤハウェは一つ。 5 そしてあなたはヤハウェ・あなたの神を愛する。あなたの全ての心において、またあなたの全ての存在において、またあなたの全ての力において。

【ギリシャ語訳】

4 そしてこれらは主がイスラエルの息子たちに命じた掟と裁き(である)、彼らがエジプトの地から出て荒野で。あなたは聞け、イスラエルよ。主、私たちの神、主は一つである。 5 そしてあなたは主・あなたの神を愛するだろう、あなたの全ての思いから、またあなたの全ての精神から、またあなたの全ての力から。

 

申命記という書物はモーセ五書の締めくくりであり、その後の歴史書(ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記)の冒頭でもあります。創世記から列王記を「九書」とも呼び、その真ん中に申命記はあります。天地創造から南ユダ王国の滅亡までの歴史。なぜダビデ王朝が滅ぼされたかの理由を申命記は説明しています。それは神に選ばれ神に愛されているイスラエルが、神を愛さなかったからです。この考え方に基づいてヨシュア記から列王記までは記された歴史書です。そしてこの考え方は旧新約聖書の基礎にある「神学」です。聖書を正典とする民に共通の信仰です。神を愛さない民を、神は滅ぼします。民に聞き従う神は(民の神)本当の神ではないからです。それは人間がこしらえた自動販売機に過ぎません。主客を転倒させてはいけません。神の民が、神を愛さなくてはならないのです。

イエスが第一の掟は何かと問われた時に、本日の箇所をすらすらと答えた理由は、神を愛するということが信徒にとって第一のことがらであることをイエスも共有していたことを示します。そしてイエスが第二の掟としてレビ記19章18節を挙げたことは、イエスの独自性を示します。

ギリシャ語訳聖書の4節はヘブライ語本文よりも長いものです。これは単なる誤訳や、ギリシャ語訳者の付け加えではなく、訳者が見ていたヘブライ語本文の時点ですでに長かったことが推測できます。イエスの時代の出土品に「ナッシュ・パピルス」という写本があります。それは本日の箇所と十戒だけが書かれた写本断片です。民家からの出土ですから「信徒必携」のような形の文書だったのでしょう。死海写本の発掘前までは世界最古の聖句写本でした。そのヘブライ語で書かれた申命記6章4節はギリシャ語訳のように長いものでした。長い部分の内容は、主語を「モーセ」から「主」に変えた申命記4章45節の焼き直しです。それを表題のようにして付け加えています。紀元後1世紀にギリシャ語訳の元になる長い形の申命記6章4節のヘブライ語本文は存在しています。だから単なる誤訳として切り捨てずに、この長い部分も尊重しなくてはいけません。それはつまり、申命記6章4-5節(シェマア)が主なる神ご自身の命じた掟なのだというように格上げされていることを尊重するということです。

さてナッシュ・パピルスは、シェマアと十戒が当時のユダヤ人にとって最重要の信仰生活の手引きであったことをも証明しました。新生讃美歌に「主の祈り」や「教会の約束」が印刷されているのと同様です。それがシェマアとレビ記19章18節(5月9日礼拝説教箇所)ではなかったことが、キリスト者にとって重要です。イエスは十戒を採らずに、第二の掟としてレビ記19章18節をあえて選び取ったのです。キリスト信徒の聖書解釈の基準はナザレのイエスにあります。隣人愛は十戒よりも大切なのだということを脇道ではありますが確認したいと思います。

ともあれ本筋に戻ればイエスにおいても第一の掟はシェマアなのですから、わたしたちは安んじて「神を愛するということ」が何であるのかを聖書からくみ取りたいと考えます。神の民に何が求められているのでしょうか。

現在の申命記はモーセの遺言という体裁をとっています。約束の地を前にしてそこに入れないモーセが、イスラエルの民に約束の地に入ってからすべきこととすべきでないことを語ったというのです。人間は亡くなる前に最も大切な言葉を遺すものです。「約束の地には、さまざまな神々がいるけれども、ヤハウェという神のみを愛し、ヤハウェにのみ聞き従え。そうすれば約束の地で神に祝福され幸せに生きることができる。唯一の礼拝施設であるエルサレム神殿で礼拝せよ。それが神を愛するということだ。他の神々を拝むならばあなたたちは神に呪われ滅ぼされる」。要約するとこのような警告がモーセの遺言です。それは神ご自身が語った言葉でもあります。モーセが神の言葉を預かる預言者だったからです。

ヘブライ語本文はギリシャ語訳と異なる形でシェマアを強調しています。ツェロフハドの娘たちの時に紹介した通り(5月23日礼拝説教)、特別に大きい文字を使っている事例が五書に三回だけあります。そのうちの一つが申命記6章4節です。6章4節を形成している最初の単語(シェマア)の最後の文字アインと、最後の単語(エハド)の最後の文字ダレトが極端に大きな文字で書かれています。この二つの文字を繋げるとエドという単語が形成されます。その意味は「証し」です。現在もシェマアは毎安息日ごとに何回も唱えられています。この聖句を口に出すことが神の民の証しだからです。モーセの遺言の中の最重要箇所としてシェマアがあります。

それだけ重要という割には、4節は意味が曖昧で何種類かの翻訳がありえます。ヤハウェという神の名前が二回も使われていることが文法的混乱の元です。ギリシャ語訳のように「ヤハウェ(主)」「わたしたちの神」「ヤハウェ(主)」という三つの単語をすべて同格にして、「一つである」という一つの動詞でまとめることもできますが、同じ単語(しかも固有名)を同格にして繰り返す理由は説明できません。一方「一つ」という形容詞を二回目のヤハウェにかけることも(新共同訳)ヤハウェが固有名であるのでいささか苦しいのです。

私訳はヘブライ語がBe動詞を必要としないことを利用した安全運転です。大意は同じです。二回畳みかけて語るという強調表現ととります。ヤハウェがわたしたちの神である、ヤハウェは一つである。ここには礼拝の意義が込められています。

礼拝は会衆(エダー)を必要とします。先ほどの証し(エド)と語源は同じです。礼拝の会衆は、ヤハウェの証人たちです。一人ではなく、二人・三人がイエス/ヤハウェという固有名のもとに集められて、初めて礼拝が成り立ちます。イスラエルは複数の人々によって成りますし、新しいイスラエルである教会も複数の人々によって成る礼拝共同体です。神は「わたし」の神ではなく、「わたしたち」の神、わたしたちのアッバです。

この会衆の真ん中におられる霊なる神が、多様な「わたしたち」を一つにしてくださる神です。礼拝はわたしたちの背景を問わないものです。どこから来た誰なのか、人種・言語・性別・障がいの有無・年齢・門地・経済状況。一つの神がそれらを良い意味で考えなくて良いようにしてくださっています。それぞれをばらばらな人格として創られた神にとって、みな同じ神の子であるからです。だからそれらの隔ての中垣を意識させない礼拝プログラムを考えることはとても意味のあることです。どんな人も一つになれるようにすることで、神がわたしたちを一つにしてくださることを体感できるからです。

5節冒頭の「そして」は「それゆえに」とも「そこで」などとも訳せますがギリシャ語訳を参考に中立的に「そして」としました。問題は原文でこの「そして」と「愛する」という動詞が一単語を構成していることです。しかも動詞は完了視座、言い切りの表現です。話者の中では、この動作は完了していますから、「そしてあなたは愛した」とも訳せます。ギリシャ語訳は単純に未来とします。「預言の完了」と呼ばれる特別な表現と採るからです。たとえば預言者は預言の完了を用いて、「大バビロンは倒れた」と言って未来の出来事を主観的に完了したものと語ることができます。

「愛せよ」と命令に翻訳することは、4節冒頭の「聞け」という命令を継続しているという一つの解釈です。「愛した」か「愛するだろう」もありえますし、実際ギリシャ語訳は「愛するだろう」を採っています。私訳は日本語の時制概念の弱さを利用して「愛する」と曖昧にしておきました。強く言えば、預言なのですから、「いつかきっとあなたは神を愛するようになる」という翻訳もありえます。

愛する様態は、「全ての心において・全ての存在において・全ての力において」です。ギリシャ語訳は「において」を「から」と意訳しています。もっと意味が強まっています。湧き上がる行為として礼拝せよという意味でしょう。さて現在のこととして、このような様態でわたしたちは礼拝ができるでしょうか。わが身を省みて、神にそこまで集中できているでしょうか。

わたしたちは月曜日から土曜日まで心が散り散りに乱れて、さまざまな神ならざるものの後ろを従っていくことがあります。この世界で生きるということは、多くの誘惑にさらされ、悪に遭遇し、ある時にそれらに敗れ、それらに引きずり込まれることでもあります。約束の地に入った後でも多くの神々が存在しているのです。バプテスマを受けた後でも、足のおぼつかない日常生活は続きます。そのような中、なんとかかんとか礼拝まで辿り着いたというのが実情ではないでしょうか。

イエス・キリストはわたしたちの神。ここで言う「わたしたちの神」は所有の意味ではなく、わたしたちと同じ高さにまで降りてくださった神という意味です。イエス・キリストは一つ。ここで言う「一つ」は、道を踏み外す羊でさえも一匹ずつ探し出して一つの群れへと集めてくれる唯一無比の羊飼いという意味です。教会は、この二つの恵みの言葉を、神の言葉としてただ聞くだけで良いのです。聞け、イスラエルよ。そうすれば、いつかきっとこのような罪びとたちの集まりであっても、全身全霊において、全存在の底から湧き上がってくる真心によって、キリストを礼拝することができるようになります。

今日の小さな生き方の提案は、神の主観(み心)に期待し、その預言を言い切る神を信じて、恵みの言葉をただ聞くということです。イエス・キリストがわたしたちの間に来てくださり、わたしたちを集めてくださったこと、聖霊の神が今おられること、多様なわたしたちを一つにしてくださっていること。今わたしたちが霊と真から礼拝をしていること。この事実を、次のたった二つの言葉から体感することです。

イエス・キリストはわたしたちの神。イエス・キリストは一つ。この二つを真摯に受け止めることで、いつか天上の者も地上の者も地下の者も「イエスは主(ヤハウェ)である」と賛美し、全身全霊をもって神を愛することができるようになります。その日を待ち望んで明日を生き抜きましょう。