祭司職とは 民数記16章1-11節 2024年3月3日礼拝説教

1 そしてレビの息子であるケハトの息子であるイツハルの息子コラは取った。そしてルベンの息子たちであるエリアブの息子たちダタンアビラムと、(ルベンの息子たちである)ペレトの息子オンは(取った)。 

 コラはどのような人物なのでしょうか。彼はミリアム、アロン、モーセ姉弟にとっては、従兄弟にあたります。三人の指導者たちの父はアムラム、母はヨケベドです(出6章20節)。アムラムも「イツハル」と同じく「ケハトの息子」です(同18節)。つまりアムラムとイツハルは兄弟、兄弟の子ども同士なので、コラとミリアム・アロン・モーセは従兄弟なのです。

 祭司の部族であるレビ部族の中のケハト氏族は、部族の中のエリート集団です。「ヤハウェの箱」以下最も神聖な物に触れ、解体し、組み立て、持ち運ぶのです(民数記4章1-20節)。民数記3章27-32節は興味深い記事です。ケハト氏族に四つの家があります。アムラム家・イツハル家・ヘブロン家・ウジエル家です。アムラム家からアロンという大祭司が生まれます。「レビ部族の代表者たちの代表」(3章32節)である大祭司職はアムラム家が独占します。なぜか末のウジエル家はケハト氏族の代表の家系となっています(3章30節)。イツハル家とヘブロン家にとっては面白くない図です。

 アムラムの長男アロンと、イツハルの長男コラは年齢が近いか、ひょっとするとコラの方が年上である可能性もあります。アロンには年の離れたミリアムという姉がいるからです。コラがアロンに対して、競合心を燃やすことはありえます。

 コラはルベン部族の「ダタンとアビラム」兄弟と、「オン」という人物を仲間に引き入れてアムラム家の大祭司職独占という構図を批判します。ルベン部族が同じ南側の宿営で常に近くにいたからだと推測されます(2章10節、3章29節、10章18・21節)。先祖ヤコブ(別名イスラエル)の長男を始祖とするルベン部族を仲間にすることは、イスラエルという部族連合体の内部での権威付けに役立つと考えたのでしょう。コラの発想は、古代人らしく男性中心で生まれ順にこだわるものでした。

 「取った」は目的語がないため意味不明です。コラと彼の仲間たちは、何を取ったのでしょうか。自分たちの支配欲/競合心でしょうか、剣でしょうか、権威主義でしょうか。読者は何を想像しても良いでしょう。

2 そして彼らはモーセの面前に立ち上がった。またイスラエルの息子たちのうちの男性たち250人も、会衆の指導者たち、会見の召集者たち、名のある男性たち(も立ち上がった)。 3 そして彼らはモーセの上にまたアロンの上に(互いに)集まった。そして彼らは彼らに向かって言った。「貴男らにとって多い。なぜなら全会衆は、彼ら全ては聖者だからだ。そしてヤハウェは彼らの真ん中に(いるからだ)。しかしなぜ貴男らはヤハウェの集会の上に自身を上げているのか。」 

 最初は二つの部族からの四人だった反乱は、イスラエル全部族に飛び火します。全イスラエル十二部族の中から「250」もの「会衆の指導者たち」「会見の召集者たち」「名のある男性たち」(2節)が、コラとダタンとアビラムとオンに同調したというのです。後にマナセ部族のツェロフハドの娘たちが、自分たちの父はコラの仲間に入らなかったと証言していますから、250人は全イスラエルから加わったと推測できます(27章3節)。また、「名のある男性たち」にコラはこだわっていて、名もない女性たちや子どもたちを仲間に入れることに熱心ではなかったとも考えられます。権威主義に基づく競合だからです。それゆえに、コラたちの主張にミリアムは登場しません。

貴男らにとって多い」(3節)は、かなり省略された表現です。「アロンとモーセの権限が多い」という趣旨でしょう。興味深いことに、コラたちは「イスラエルの民主化」を求めています。権力は分散されるべきだと主張しているからです。およそ権力が分散されていない国は憲法を持っていないものです。この後に続く言葉も、万人祭司や会衆主義といったバプテスト教会の主張に近いものです。

すなわち、全会衆は一人一人「聖者」であり、聖俗二種類の人間はいないというのです。確かにモーセ自身も、民全員が預言者になれば良いと行ったことがあります(11章29節)。コラは言質をとっています。また民の「真ん中に」神は宿っています。二人または三人がキリストの名のもとに集まるならば、すなわちそこは教会です。この「ヤハウェの集会」、キリストの教会の上に自らのし上がろうとすることは許されません。教会において王は、ただ一人。主イエス・キリストです。コラの訴える平等思想は説得力を持っています。民全員は聖者なのだから、せめてこの250人にアロンとモーセが持っている権力を配分せよというからです。それだから、コラの反乱は今までの匿名の群衆のつぶやきとはレベルが異なります。成功すれば「革命」、失敗すれば「反乱」と呼ばれるような、歴史的な葛藤と大分裂です。

4 そしてモーセは聞いた。彼は彼の顔の上に落ちた。 5 そして彼はコラに向かって、また彼の全会衆に向かって語った。曰く「翌朝、そしてヤハウェは、彼に属する者を、また彼の聖者を知らせるのだ。そして彼は彼に向かって近づけるのだ。そして彼が選ぶ者を彼は彼に向かって近づける。 6 貴男らはこれをせよ。貴男らは貴男らのために――コラと彼の全会衆よ――もろもろの香炉(を)取れ。 7 そして貴男らは彼女たち〔もろもろの香炉〕の中に火(を)与えよ。そして明日貴男らは彼女たち〔もろもろの香炉〕の上にヤハウェの面前で香を置け。そうすればヤハウェが選ぶ男性こそが聖者となる。貴男らにとって多い。レビの息子たちよ。」 

 モーセは従兄弟であるコラの強烈な批判を聞いて動揺を隠しません。「彼は彼の顔の上に落ちた」は神礼拝の際に使われる「跪拝」(土下座)の姿勢です。絶望の境地といったところでしょう。彼は言葉を振り絞ります。モーセの言葉は反論ではありません。理屈の上ではコラに勝てないからです。そうではなく、神の審判を仰ごうという提案です。

 神に属する、神の選ぶ、神の聖者とは誰か。大祭司職がふさわしいのはアムラム家か、それともイツハル家か。出エジプトの指導者としてふさわしいのは、アロンとモーセか、それともコラやダタンやアビラムやオンら250名の男性たちか。「知らせるのだ」「近づけるのだ」(5節)は、預言の完了形と呼ばれる表現です。預言者モーセは、自分自身の強い確信に基づいて、神の審判を仰いでいます。対立するお互いが、どちらも同じヤハウェに香を焚き、礼拝をするというのです。天へと立ち上るその香りのうち、どちらを「良い」として選ぶのかをヤハウェに委ねる「神明裁判」です。これはかなり危険な賭けです。しかしこれ以外にモーセには何も採る手段はなかったのでしょう。

コラと彼の全会衆」(5・6節)は祭司コラの率いる人々が、同じヤハウェを信じる信仰共同体であることを示しています。彼らもまた礼拝の会衆です。礼拝されているヤハウェだけが、その会衆を選ぶことができるはずです。

貴男らにとって多い」(7節)は、相手の言葉(3節)をそのまま返しています。コラ、ダタン、アビラム、オンら250名にとっても権限が多い、重い荷物かもしれないと、モーセは皮肉を言っています。権限を奪うということではなく、権限を共に担うということの方が穏便ではないかと言いたいのかもしれません。

8 そしてモーセはコラに向かって言った。「ぜひ貴男らは聞け、レビの息子たち。 9 以下のことは貴男らから(見て)少ないだろうか。イスラエルの神が貴男らをイスラエルの会衆から分けるということは(少ないだろうか)。彼に向かって貴男らを近づけるということ、ヤハウェの宿り場の労働を働くということ、また彼らに奉仕するために会衆の面前に立つということ(は少ないだろうか)。 10 そして彼は貴男と貴男の全兄弟・レビの息子たちとを貴男と共に近づけた。しかし貴男は祭司職も求めたのだ。 11 それだから貴男と、(互いに)集まっている貴男の全会衆は、ヤハウェの上に(いる)。そしてアロン、彼は何か。というのも貴男らが彼の上に非難するからだ。」

 多い」(7節)という言葉から、モーセは反対語を連想します。「少ない」(9節)という言葉です。論破されかけているモーセは、論理的というよりは感情的にコラの心に語りかけます。あなたが言う「アロンは多い、私は少ない」という不満は正しいのか、と。

「同じレビ部族の中のケハト氏族ではないか。ヤハウェはレビ部族のイツハル家も重用し、神ご自身に近づけ、イスラエルの他の十一部族から選り分け、レビ部族の他の氏族からも選り分けている(9・10節)。聖所・至聖所の組み立てや、ヤハウェの宿っている箱の移動や安置(「宿り場の労働」9節)、礼拝祭儀を執り行うこと(「奉仕するために会衆の面前に立つ」9節)を、今もアムラム家と一緒に担っているではないか。この仕事のやりがいや権限や名誉、つまり神の恵みは「少ない」のか。なぜアロンの大祭司職に取って代わろうとするのか。従兄弟である雄弁家アロンへの嫉妬や競合心があるのではないか。職務上大祭司であるということは、人間としてアロンがあなたコラの上にいるということではない。人間は誰も神の似姿として平等だ。彼が誰であるかではなく、「彼は何か」(11節)ということに注目すべきだ。昔から知っている幼馴染の従兄弟の活躍が憎たらしいという次元ではなく、大祭司はその職務に忠実であること、イツハル家の祭司もその職務に忠実であることだけが重要である。ヤハウェだけがすべての人の「上に」(11節)あるのだから」

現代人から見れば、モーセの言い分は身分制度から脱却できていません。イツハル家に生まれると必ず大祭司になれないことが人権上問題だからです。また職業選択の自由が無いということも問題だからです。しかし、モーセの言い分の内、コラの動機の歪みに対する批判としては正しい面があります。

今日の小さな生き方の提案は、人と比べることを止めるということです。わたしたちがいただいている神の恵みは「多い/少ない」で判断できるようなものではありません。「より多い」人を羨むことは、「より少ない」人をさげすむことと裏表の関係にあります。やはり、すべての人は固有の価値をもって異なるということ、それと同時に共通平等の基本的人権を持つということ、それだから比較することに意味がないということに立つべきです。兄カインは弟アベルとの比較をすることで自分の身を滅ぼしました。ここに、コラが従兄弟アロンと比較する過ちの原型があります。他人と比べる時に罪は戸口で私たちを待ち伏せしています。

イエス・キリストは各自の十字架を背負って私に従いなさいと言われました。ペトロにも、他の人のことは気にせず、あなたは私に従いなさいと言われました。私らしく生きることでイエスに従ってまいりましょう。