罪と罰 創世記42章18-28節 2020年3月1日礼拝説教

18 そしてヨセフは彼らに向かって第三の日に言った。「このことをあなたたちは行え。そうすればあなたたちは生きる。かの神/神々を私は恐れている。  19 もしあなたたちが正直ならば、一人のあなたたちの兄弟が縛られるように、あなたたちの見張りの家の中に。そしてあなたたちが行け。あなたたちの家の飢えの穀物を持って行け。 20 そして最も小さいあなたたちの兄弟をあなたたちは私のもとに来させよ。そうすればあなたたちの言葉が信実とされる。そうすればあなたたちは死なない」。そして彼らはその通りに行った。

 エジプトの総理大臣は一人を選べと言いました。監禁されている見張りの場所で十人の兄弟は、ベニヤミンを連れて来る者が誰であるべきかを話し合います。しかし結論が出ません。困難が予想されるので決断できなかったのです。つまりその一人に対する負担の大きさです。長旅を一人でし、そして父ヤコブを説得し、ベニヤミンと二人でエジプトの首都まで戻ってくることはかなりの負担です。誰もしたくない仕事でしょう。また九人も人質にとられてしまうことはヤコブ一家にとってあまりにも被害が大きい。もしかすると九人全員が処刑されてしまうかもしれないのです。また一人だけが穀物を運ぶのはロバがいるとはいえ、限られた量になってしまいます。父たちはがっかりするでしょう。

三日かけても決めきれないことは、この十人の中に決定的なリーダーがいないということも示しています。十人は平たい関係です。これは、後の十二部族というものがお互いに対等・平等の関係であることをも示しています。

そこにエジプト王の代理人・独裁者ヨセフが登場し、煮え切らない兄弟たちに最終判断を示します。「こちらで選ぶ一人の兄弟を質にとる。残りの九人で帰れ。小麦は売る。代金に見合った量にする。九人で運び、飢えを凌げ。必ず最も小さい兄弟を連れてこい。そうすれば、あなたたちの言葉が信実であると考えよう。あなたたちは生きよ。」

もう彼らには選択肢がありません。総理大臣の言葉に従うだけです。彼は「信実」にこだわっています。20節「信実とされる」(アマン)はアーメンと同じ語源の言葉です(16節エメトの動詞形)。もう一人兄弟がいることを証明しなくては、信頼に値する誠実さを持っていないことになってしまいます。それに総理大臣の最終決定はそんなに悪くない話でもあります。小麦を買うことはできるのだし、九人で運ぶことができるのですから、一家の飢えは凌げます。もう一度来なくてはいけないにしても、人的被害は最小に食い止められました。彼らはその通りに(ケン)行うことにしました。

ヨセフの言葉にも兄弟同士は対等であることが示されています。シメオンにもベニヤミンにも「あなたたちの兄弟」と同じ表現を用いているからです。人質は同じ価値でなくてはいけません。ベニヤミン一人と九人の人質ではバランスがとれません。一対一というバランスだったので、兄弟たちも同意しやすかったのでしょう。このことは、兄弟たちにヨセフが不平等に扱われたことを思い起こさせます。ヨセフだけエジプトに売り飛ばされることは不公平です。

21 そして各人が彼の兄弟に言った。「確かに私たちは罪を犯し続けている(アシャム)、私たちの兄弟について。その彼の全存在の苦しみを私たちは見た。彼が私たちに向かって憐れみを乞うた時に私たちは聞かなかった。それだから私たちに向かってこの苦しみが来た」。 22 そしてルベンが彼らに答えた。曰く、「私はあなたたちに向かって言わなかったか。曰く『あなたたちはその子に罪を犯してはならない(ハッター)』。そしてあなたたちは聞かなかった。そして彼の血も、見よ、求められ続けている」。

 とうとう十人は本心に立ち帰り、それぞれの良心にたどり着きました。対等・平等であるはずの「私たちの兄弟」(21節)ヨセフに対して酷いことをしたことを悔い改め始めたのです。彼らは心の中ではヨセフに対する犯罪を忘れたことなどありませんでした。彼らの耳にはいつもヨセフが「助けて」と言った言葉がずっと残っていたのでした。また、ヨセフの悲惨な姿が瞼から離れません。それは「全存在の苦しみ」と表現されています。

ここには二種類の「罪を犯す」という言葉が用いられています。21節はアシャムで現在進行形です。これはルベン以外の九人の言葉でしょう。22節はハッター、長男ルベンの言葉です。

次男シメオン以下九人は、アシャムという行為をヨセフとの関係でし続けているというのです。アシャムの意味は、「危害を加える」と「賠償する」の二つです。暴力行為に及んだ傷害罪を九人は悔い改めています。またエジプトに売り飛ばした誘拐行為を悔い改めています。それと同時に、九人は犯罪に対する罰を背負い続け、今も賠償をし続けているとも言っています。ヘブライ語聖書は、罪と罰を同時に言います。罪を犯すことそのものが罰を負うことでもあります。犯罪を精算しないことは賠償請求が常に続けられていることです。父ヤコブからも適切に裁かれていません。良心の呵責に苛まれることで、九人はヨセフに賠償をし続けています。

彼らの悔い改めはさらに深みを目指します。危害を加えるということは、全存在が苦しむ隣人の叫び声を「聞かないという罪」だという地点です。また、ルベンのような、ヨセフを庇う弁護人の声、少し暴力を和らげようという声も「聞かないという罪」です。ルベンは、アシャムではなくハッターという言葉で、九人の弟たちの言葉を修正補足しました。ハッターは宗教的な罪、神に対する背叛です。この言葉にも罪だけではなく罰の意味もあります。「われわれがヨセフに対して犯した「聞かないという罪」は、実は神に対する冒涜であり、神はわれわれを裁く。ヨセフの声を聞かなかったわれわれが、自分たちの声をエジプトの総理大臣に聞いてもらえないのは当然の報いだ。ヨセフの血がエジプトの大地から叫んでいる。我々の血が要求されている」。

ただし実際のルベンの発言(37章21-22節)と、22節の過去の再現発言とは異なります。ルベンは「殺すな」「穴に投げ込め」と言い、弟たちはルベンの言葉に聞きしたがっています。最初からルベンは、「神に対する罪を犯すな」とは言っていません。ルベンがこの対話の中で成長して、神に対する罪であることに気づいたのでしょう。

23 そして彼らだけはヨセフが聞き続けていることを知らなかった。なぜなら彼らの間に通訳が(いた)からだ。 24 そして彼は彼らに接しているところから(顔を)背け、泣き、彼らに向かって戻り、彼らに向かって語り、彼らからシメオンを取り、彼を彼らの目のために縛った。

 この十人の対話をヨセフはじっと聞き続けていました。この部分は通訳が入らなかったと思います。だから兄弟たちは身内話を存分にしていました。そのおかげで良心にまで到達し、本心に立ち帰って悔い改めがなされたのです。ヨセフは自分の母語で、つまり細かい感情の機微に至るまで兄弟たちの本心をよく理解しました。今、あの出来事・加害の事実を加害者側がどのように理解しているのかを知りました。シメオンでさえずっと悔いていたのだ。片時も忘れたことがなかったのだ。ある意味で苦しんでいたのだ。この部分をこそ知るために、ヨセフは兄弟たちを探していたのでした。おまけに、ルベンだけは自分を庇う発言をしてくれていたことも初めて知りました。そう言われてみれば、売り飛ばされた現場にはルベンはいなかったように思い出します。

 ヨセフは感情の高まりを抑えきれなくなりました。兄弟たちと面と向かうことができずに彼は顔を背け、離れて泣きました。泣き叫ぶと訳しても構わないほどの激しい泣き方です。珍しいことです。ヨセフは他人に共感する能力が低い人です。この対話は、ルベンだけではなく、ヨセフをも成長させています。聞かなかった罪を、今、聞かれないという罰で賠償しよう、神の裁きを受けようとしている十人に対して、ヨセフは感動しています。その上で、ヨセフはシメオンを選びます。もちろんシメオンが凶暴な首謀者だったことや、ルベンの次に生まれた者ということも理由でしょう。しかしもう一つの重要な理由がありえます。シメオンという名前の由来は、「(神が)聞いた」というものでした(29章33節)。全存在の苦しみの声を発する十人の言葉を、信実なものとしてヨセフは聞いたのです。

25 そしてヨセフは命じた。すなわち、彼らが彼らの袋を穀物(で)満たすように、また彼らの銀をそれぞれその袋に向かって返すことを、また彼らのためにその道のために食料(を)与えることを(命じた)。そして彼は彼らのためにその通り行った。 26 そして彼らは彼らの穀物を彼らのロバたちの上に持ち上げ、そこから行き、 27 その一人が宿の中で彼のロバのために餌を与えるために彼の袋を開け、彼の銀を見、そして見よ、それが彼の大袋の口に(ある)。 28 そして彼は彼の兄弟たちに向かって言った。「私の銀が戻された。そしてしかも見よ、私の大袋の中に」。そして彼らの心が出て行き、震え、各人が彼の兄弟に向かって曰く、「何かこれは。神が私たちになした(これは)」。

 ヨセフは故郷の父たちの飢餓を救いたいと考えています。経済的にも助けたいと考えています。それと同時にベニヤミンに会うことも願っています。シメオンの人質解放が必ずなされるように段取りをつけたいと考えています。

それらを実現するために、エジプト人行政官たちに奇妙な命令を発します。値段とは関係なく袋いっぱいに小麦を詰め、また小麦の代金である銀をそれぞれの袋の中に戻し、さらに帰りの食料までエジプト国家が支給するようにという命令です。さすがにエジプトの官僚は渋ったのでしょう。原文では、「彼(ヨセフ)は彼らのためにその通り行った」(25節)としています。命じたけれども誰も応じないのでヨセフ自らが水増しをしたのでしょう。ヨセフはある程度国家を私物化しています。

九人は予定よりも多くの小麦を買えました。でも帰りの足取りは重いものでした。この後の困難が予想されるからです。父ヤコブはベニヤミンを連れてエジプトに行くことに賛成してくれるだろうか。シメオンはどうなるのだろうか。そんなことを考えながら宿でロバの餌を与えようとしたところ、とんでもない事実が発覚しました。代金の銀が戻っていたのです。兄弟たちはそれぞれ別の財布をもって、それぞれの家族分の小麦を買ったようです。各代金がきちんとそれぞれ別の袋に入っていたというのです。つまりただで小麦をもらった。陰謀か。恵みか。神はどこへと導こうというのか、この続きは来週です。

今日の小さな生き方の提案は「聞かないという罪」に敏感になるということです。困っている人の声を聞かない行為は、小さな声を聞かないという、貧しい生き方を過ごすという罰を背負うことです。そのような生き方は、神に対する罪です。私たちの霊的成長は、最も小さくされた人の声を聞こうとするところから始まります。シメオンでさえヨセフの叫び声を聞き直し思い出しました。その砕かれ悔いた全存在がヨセフを感動させ共感させ泣かせました。ヨセフも彼らの信実の言葉を聞きました。聞く生き方に幸せがあります。