罪を犯したことのない者 ヨハネによる福音書7章53節―8章11節 2013年11月10日礼拝説教

今日の箇所は、亀甲括弧〔 〕で囲まれています。この意味は今日の箇所が翻訳の元としている重要な写本には存在しないということを意味します。一般的に新共同訳においてはそのような箇所を、巻末(たとえばヨハネ福音書の末尾)に移して記載します(新約212頁等)。おそらくあまりにも有名になってしまった物語に敬意を表して、この場所にそのまま置くことにしたのでしょう。

元々の著作にこの聖句がなかったということはわたしたちにとってどのような意味を持つのでしょうか。「元々なかった」と切り捨てるよりも、ここはむしろ、あえてこの場所に聖句を書き込んだ人々の信仰を尊重し、その人たちの意図を汲み取る努力が必要です。彼ら・彼女らはイエスが機転を利かせて一人の女性を救い出した出来事を伝え聞き、どうしても福音書に載せたかったのです(ちなみにこの物語をルカ福音書に記載している写本もあります)。それは権力者たちに利用され苦しめられている女性を救い出すイエスの姿を描きたいという意図でしょう。四つの福音書を読み比べた上で、最初に付け加えた編集者はサマリア人女性など女性の多く活躍するヨハネ福音書にこれを記載すべきと考えたのではないでしょうか。

そういうわけですからわたしたちはこの物語を女性解放という隣人愛の視点で読むべきです。ここに登場する女性の名誉を貶める方向で解釈していくのは筋違いです。なぜこのことを前置きするかと言えば、白人男性たちの2,000年にわたる聖書解釈の歴史がひどかったからです。この女性がいかに「異性関係においてふしだら」であったのかを言い募り「そのような女でさえも主は愛され、二度と罪を犯さないようにと命令する」という言い方でしめくくることの連続だったからです。この悪しき男性中心主義の解釈伝統は、サマリア人女性に対しても、またマグダラのマリア(ルカ8:2)にも、ある「罪深い女」(ルカ7:37)にも当てはまります。悪霊につかれるということや、当時の律法によれば罪と定められていたことが女性の身に起こると、ただちに「性的に問題のあるふしだらな女性」と烙印を押して貶めることが教会にはよくあります。自分たちが溜飲を下げるために「淫婦」を生み出すわけです。

今日登場する女性の名誉を貶めない解釈、その一例は「これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)という命令を重んじないということです。この発言が7節のイエスの言葉と矛盾するからです。7節によればすべての者は罪人なのですから、11節で女性に罪を犯すなという命令は矛盾です。「罪を犯すな」という命令は、女性が罪を犯したことを前提していますが、「誰も罪に定めなかった」のだから女性には罪がない。そしてその状況を作り出したのはイエスなのですから「女性には罪がない」とイエスは言いたいと読むのが素直です。

聖句内部で矛盾が起こったときにわたしたちは隣人愛の視点でどちらかを選ぶべきです。ここで、すでにわたしたちが5:14の「もう、罪を犯してはならない」を重視しなかったことを思い出しましょう。病気は罪の結果という考えと(5章)、目が見えないことは罪の結果ではないという考え(9章)が矛盾した時に、わたしたちは9章の視点に立って5章を読み直したのでした。同じように死刑に処されそうな女性の救出という隣人愛に立って物語全体を見直してみましょう。何度も読んでいる人にとっても新しい発見があるはずです。

まず全体の主題にふさわしい小見出しを付け直してみましょう。この出来事は権力者たちの陰謀へのイエスの対応です。すでにイエスに殺意を抱いている者たちが、「イエスを試して、訴える口実を得るために」しかけた出来事だからです(6節)。「律法学者たち」「ファリサイ派の人々」(3節)が主犯であり、女性は道具として利用されているに過ぎません。だから新共同訳が付けている「姦通の女」という小見出しそのものが適切ではありません。「ファリサイ派らの悪巧み」か「陰謀をかわしたイエス」ということが主題です。これが真の小見出しでしょう。権力者たちの何が悪いのかを知ることが本筋として大切です。そしてその上でイエスの何が良いのか確認しましょう。反面教師は権力者たちであり、模範となるべきはイエス・キリストです。

律法学者たちやファリサイ派の人々は、第一にイエスを殺そうと考えています。自分たちの権力を濫用して国家の名のもとに死刑を執行しようとしています。この点に大きな問題があります。死刑は国家による殺人です。戦争と似ています。人は人を裁きうるのか、特に隣人のいのちを奪うことが許されるのか、これは現代においても大きな問題です。冤罪のように無罪の人を有罪とする場合に取り返しがつかないので死刑は大きな問題をはらんでいます。

わたしは死刑制度に反対です。それは福音書に描かれるイエスが、冤罪をこうむって国家の名のもとに十字架で虐殺されたからです。新約聖書は十字架刑死をそのまま手放しに肯定していません。むしろ、イエスの十字架は人間の罪を明らかにする否定的なことがらです。もし神が地上に降り立ったなら人間は神を殺す、そのことを十字架は表します。その上で、死刑はイエスに限り別の意味を持つのです。全世界分の人の身代わりの犠牲という意味付けです。もう誰も誰かの犠牲になる必要がないという意味付け、国家権力により殺された人の最後という意味付けです。この意味付けは死刑制度廃止への原動力となります。現実はまだ国家の名の下に殺される人は後を絶っていません。

イエスの受けた冤罪はある日突然降って湧いたのではなく、イエスのように振る舞う者を国家権力が執拗に追い回し、「訴える口実」を得ようとした結果生まれた事態なのでした。ここには過程があります。今日の箇所もその過程の一つです。ユダヤ人権力者たちの殺意はすでに読者に紹介されています(5:18、7:1、7:32)。このむき出しの敵意・害意・悪意が問題です。罪というものは敵意・害意・悪意、要するに意地悪を外に出すことです。

さらに彼らの手法です。律法を、女性を悪用するために用いるやり方はひどいものです。申命記22章22-24節(旧約315頁)をお開き下さい。ここには二種類の犯罪についての刑罰が記されています。①既婚女性との性交渉、②婚約中の女性との性交渉です。どちらの場合も、性交渉をした男女ともに死刑ということが22節・24節で規定されています。全体に律法は性差別・しょうがい者差別を含んでいますが、そのことを置いても律法学者たちは律法の規定をさらにねじまげて悪用しています。ここで女性だけを連れてきているからです(3節)。ニコデモのように隣人愛という視点から律法を解釈していないことがよく分かります(51節)。

そうなると相手の男性も律法学者たちと共犯の可能性があります。そうであれば「姦通」という犯罪が成立しません。むしろ女性に対する「詐欺」ではないでしょうか。そもそも、女性をただイエス殺害の口実づくりのために使い捨てようとしていること、自分たちの陰謀成功のためならば死んでも構わない人間がいる・女性の名誉など傷つけても構わないと思っていることに、度し難い傲慢さがあります。具体的には「『女性を石で打ち殺せ』と言え。そうすればお前の人気は地に落ちる。『女性は無罪判決だ』と言え。そうすればお前を律法違反で死刑にしてやる」と企んでいたのです。

女性への差別、これが罪です。さらに、法律の解釈権限を濫用すること、都合の良いように「解釈改憲」していくこと、これが罪です。一人の人を殺すために、何人の人を巻き込んで貶めても構わないと考えること、これが罪です。わたしたちにはこれらの罪、具体的には殺意・敵意・害意・悪意・差別・名誉毀損・詐欺・力の濫用・暴力を棄てる生き方が求められています。律法学者たちは反面教師です。

さてこれらの反面教師に対してイエスの振る舞いはどのようなものだったのでしょうか。わたしたちの模範はイエスにあります。敵たちが陰謀をひっさげてずかずかと女性を無理やり引きずってイエスのところに来た時に、イエスは静かに座って人々を教えていました(2節)。暴力を働いて隣人を貶める人と、言葉を用いて隣人を引き上げている(教育)人が、ここで対比されています。

敵は女性を真ん中に立たせ自分たちも立ったまま、座っているイエスたちを見下ろしながら自分の用件を済ませようとして話し始めます。その一方でイエスはかがみ込み地面に何かを書いていました(6節)。ここに傲慢な人と謙虚な人の対比、支配欲むき出しの人と隣人に仕える人の対比があります。聖書が語る謙遜とは心のありようを指すのではありません。腰を屈まされている状態を指します。人に仕える行為が謙遜の意味です。キリストは仕える姿勢で女性を救出する知恵の言葉を探ります(6節)。

悪だくみをしている者たちに対して、キリストは女性のいのちを救う一言を語ります。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけなさい」(7節)。ぎゃふんという状況です。誰も最初の一石を投げにくくなりました。投げた者は神の前で罪を犯したことがないと自認した者となるからです。人前で恥をかくことは若者よりも年長者が嫌がることです。面子がつぶされるからです。深い恨みを残して年長者からその場を立ち去りました。

ここには真摯な悔い改めはありません。律法学者たちは女性にもイエスにも誠実に謝罪していないし、賠償や名誉の回復もしていないからです。だからこそ彼らは憎しみを原動力にイエスを死刑にしていくのです。この場面もその過程の一つです。言い方を変えれば、女性を救うということでイエスは身代わりの死刑を負ったのです。困っている人を弁護するときに、同じようなことがわたしたちに起こり得るでしょう。

冤罪から救われた女性、だまされて殺されそうになった女性と、同じく悪だくみによって冤罪をこうむり殺されかかったイエスは、同じ地平に立ちます。死刑囚という低みに立たされたのです。死刑判決を出すことができる人は本当のところ誰もいません。人は人を罪に定めることはできないのです(10-11節)。この虐げられている人たちとの連帯感にイエスの隣人愛が表れています。

この連帯感の源はイエスの生まれにあるようにも思えます。マタイ福音書によれば、母親マリアは胎児だったイエスもろとも同じ法律により処刑されかけました(マタイ1:18-19)。おそらく父親ヨセフは、「お腹の子どもは自分の子どもだ」と強弁して、マリアをかばったのでしょう。そうでなければ殺される事例です。律法を隣人愛の視点で解釈し直すことはヨセフとマリアとイエスにとってはイエス誕生の時から見に付いていることがらなのでしょう。

さらにイエスは女性に対しても、さらに言えば自分を殺そうとしている律法学者たちにも死刑判決を出しません。死んで構わないいのちなどは無いのです。むしろイエスは徹底的に教育的です。律法学者たちに「自分の頭で考えろ」と知恵ある言葉によって切り返しているからです。

これらのイエスの振る舞いがわたしたちの模範です。自分に意地悪をする者に対して何をすべきでしょうか。今日の生き方の提案は、意地悪に決して負けないことです。意地悪を受けている人と連帯すること・かばうことです。非暴力で対抗することです。自分の頭で考えた知恵ある言葉をもって毅然として堂々と反論することです。イエスから受けた愛を別の誰かにすることです。