罪を負う 民数記14章26-35節 2023年11月19日礼拝説教

26 ヤハウェはモーセに向かってまたアロンに向かって語った。曰く、 27「いつまで、私についてぼやき続けている、この悪い会衆のために…。私についてぼやき続けているイスラエルの息子たちの不平を私は聞いた。 

 モーセに説き伏せられて、ヤハウェは改めて「またアロンに向かって」(26節)も語り始めます。今までは一対一の対話でしたが、今度は三者によるものです。民への伝言となる時に、ヘブライ語が苦手なモーセのために兄アロンが通訳として立っていたからでもありましょう(出7章1節)。さらには通常数えられていないゆえに言及されていませんが、ミリアムに向かってもヤハウェは語ったかもしれません。というのも、この後に続く「ヤハウェの託宣」(28節)は、常に不利益な取り扱いを強いられている女性たちや未成年者・子どもたちにとって不利益にならない内容だからです。当事者女性であるミリアムに第一に語られるべきです。「ヤハウェの託宣」は預言の専門用語ですから、預言者であるミリアムに女性や子どもへの伝言が託されたとも考えられます。

 27節には、神であるヤハウェのぼやきも記されていて興味深いものがあります。「いつまで、私についてぼやき続けている、この悪い会衆のために…。」と一文が完成していません。ヤハウェは三人の指導者を信頼し、率直に何でも言えるのでしょう。モーセだけではなく、アロンもミリアムも神と直接言葉を交わすことができる人物でした(12章)。神は、自分に対する愚痴をこぼす民について、民の指導者である三人に愚痴をこぼしています(28節)。「いつまであなたがたに我慢できようか」と弟子たちに愚痴るイエスの姿と重なります(マルコ福音書9章19節)。問題は解決しなくても、愚痴る相手がいるということは感謝すべきなのでしょう。何かほっとする記事です。

28 貴男は彼らに向かって言え。私は生きている。ヤハウェの託宣。絶対に、貴男らが私の耳の中に語ったのと同じく、そのように私は貴男らにする。 29 この荒野で貴男らの遺骸が落ちる。そして貴男らの数の全てに応じて登録されている貴男らの全ての者、私についてつぶやいた二十歳よりも上の息子たちは(落ちる)。 30 貴男らをその中に宿らせるために私が私の片手を上げた地に向かって貴男らが来ることは決してない。エフネの息子カレブとヌンの息子ヨシュアを除いて。 

 イスラエルの民は14章2-3節でモーセとアロンに対して次のように言っていました。「もしこの荒野で私たちが死んだだけならばいいが、なぜヤハウェは私たちをこの地へとその剣に落ちるために連れてきたのか。私たちの妻たちと私たちの乳児たちは戦利品となるだろう。」このように言った民の言葉が、民に実現するというのです。荒野で死んだ方がより良いと言うことは、荒野で死ぬことを選んだという意味です。自らの言葉に基づいて、民はカナンの地で「剣に落ちる」戦死を遂げるのではなく、民の一人一人に「遺骸が落ちる」自然死が「荒野で」起こります(29節)。「絶対に、貴男らが私の耳の中に語ったのと同じく、そのように私は貴男らにする。」(28節、35節も)

 ここには自らの言葉に対する責任の重さが示されています。自分の発した言葉は必ずブーメランのように戻って来て自分を打ちます。そういうものとして一人一人は発言・発表・表現をすべきでしょう。公の言葉は重いのです。

 さて「民数記」という、ギリシャ語訳以来の伝統的書名のとおり、この書には民を数えて登録する記事が二回も掲載されています(1章、26章)。29節にある「二十歳よりも上の息子たち」は、1章2-3節と対応しています。そこには家系に従って兵役につくことができる二十歳以上の男性だけが登録され、数えられています。だから、ヤハウェの託宣は、この時点で二十歳以上の男性にだけ適用されます。今回はあえて頻出する「息子たち」を文字通り、男性のみに絞って解釈します。そうなると30節の「貴男ら」は、29節の「二十歳よりも上の息子たち」です。神が片手を上げて誓った土地に、来ることができない者たちは普段は人間として数えられているイスラエル人成人男性だけであり、普段数えられていない非イスラエル人(ミディアン人、クシュ人ほか)・未成年・非男性は、来ることができたのかもしれません。寿命によって荒野で亡くなった人以外は。「カレブ」と「ヨシュア」の妻たちも共にカナンの地に入ることができたのかもしれません。

31 そして貴男らが「戦利品となる」と言った貴男らの乳児なのだが、私は彼らを来させる。そして彼らは貴男らがそれを侮った地を知る。 32 そして貴男ら、貴男らの遺骸は、この荒野で落ちる。 33 そして貴男らの息子たちは四十年その荒野で羊飼いとなる。そして彼らは貴男らの不実を担う、その荒野で貴男らの遺骸が果てるまで。 34 貴男らがその地を四十日探求した日々の数でもって、日はその年に、日はその年に、貴男らは貴男らの咎/罰を四十年担う。そして貴男らは私の拒絶を知る。 35 私、ヤハウェこそが語った。絶対に私は、私に接して相互に集まっている、この悪い会衆の全てにこれを行う。この荒野で彼らは果てる。そしてそこで彼らは死ぬ。」

ヤハウェの神は、民の言葉を用いながら、民の言葉を正します。「そして貴男らが「戦利品となる」と言った貴男らの乳児なのだが、私は彼らを来させる。そして彼らは貴男らがそれを侮った地を知る。」(31節)。未来は子どもたちのものです。自分の付属物・所有物のように「女子供」などと扱っているから、「敵の戦利品になる可能性のあるものたち」という言葉がとっさに出てくるのです。思いもしない言葉などというものを思わず言うことはありえません。差別発言とは常に思っている差別意識が言葉になるだけのことです。

聖書の神は子どもたちに未来を約束する神です。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ福音書9章15節)。世間では子どもは人間として数えられていない存在、大人たちによって侮られている存在ですが、神はこの子どもたち一人一人の名前を呼んで招いています。その真理は、日本の子どもたちであれ、パレスチナの子どもたちであれ同じです。子どもたちこそ真っ先に人間としての権利(基本的人権・幸福追求権)を享受すべき存在です。

聖書本文が何度も繰り返されているように、二十歳以上の男性たち/彼らの遺骸は、荒野で落ちる/果てることになります(32・33・35節)。それはつまるところ「そこで彼らは死ぬ」(35節)ということです。ヤハウェの神は、25節までのモーセとの対話後に熟慮をしたのでしょう。荒野での自然死を20歳以上の男性たちに対象を絞り、そして期間も限定します。「四十年」です(34節)。ここで疑問が生じます。この時点で20歳、かつ、40年後に60歳でまだ生きていた成人男性はどうなるのでしょうか。モーセも120歳まで生きていたことを考えるとあり得る想定です。実際、神も20章12節までは、モーセとアロンがカナンの地に入ることを認めているように読めます。

レビ記27章3節は、いわゆる「現役世代」≒「壮年」についての古代イスラエルの考え方を反映しています。20歳から60歳が働き盛りのようです。60歳を超えると「引退世代」なのでしょう。特に兵役についてあてはまると思います。つまり数えられない人、非イスラエル人・非男性・未成年と同じような扱いにされていく可能性が、実は男性であってもありえるということです。この場合、35節の「彼らは果てる」を男性たちの兵役期間の満了と採ります。軍人に向いていない男性(男らしくない人・身体的に弱い人)や、加齢によって兵士に向いていない人になった男性は、数えられません。こうして、「荒野での四十年」は、全ての者が弱い者たちになる旅、この世界では取るに足らない者・数にも入れられない者になっていく道のり、「強い」自分に死んで「弱い」自分によみがえらされる人生、つまり下へと上る歩みとなります。

こう考えると神の「拒絶」(34節)とは、強さを誇ったり、強さを比べたりする考え方に対する拒絶のように思えます。アマレク人が自分たちより強いかどうかを考える必要はそもそもありません。イスラエルは自分たちの召しそのものを考えるべきです。それは、エジプトの奴隷が自由とされた救いであり、功績もないまま一方的に神の宝の民、祭司の国とされた恵みです。

さて荒野での四十年の意義について、この時点で二十歳未満の者たちに焦点を合わせながら考えましょう。「貴男らの息子たちは四十年その荒野で羊飼いとなる。そして彼らは貴男らの不実を担う」とあります(33節)。「不実」は不誠実な関係性という意味合いです。「姦淫」「不倫」などとも訳せます。この時点での現役世代の神に対する不実を、次世代が担うものとして描かれていることが特徴です。イエス・キリストのように良い羊飼いとなって、羊一匹一匹を尊重し、固有の名前で呼びかけ、誠実な関係を誰とも結ぶことができれば、前世代の不実を担うことができるのだと思います。

1985年5月8日西ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、本日の聖句を強く意識した「荒野の四十年」という演説を残しました。そこで彼は「過去に目を閉ざす者は現在においても結局盲目となる」と言って、ドイツの人権侵害(ユダヤ人に対する「民族浄化(虐殺)」政策)の加害を直視するように勧めました。前の世代の不実を担う態度として模範となります。日本において、関東大震災時の朝鮮人虐殺や南京大虐殺は無かった(あったが数は少なかった)など、とかく前世代の不実を直視しようとしない言葉があふれているからです。

さて、同じ演説には次の言葉もあります。「中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。」ヴァイツゼッカーはドイツの加害責任を認めることが、イスラエル国家のパレスチナ人への加害責任を薄める効果につながることを知っていました。ユダヤ人に対する「民族浄化」という加害への賠償は、ドイツ他欧米内部で収めるべきで、イスラエル建国という条件を認めるべきではなかったのです。欧米は罪責をすり替えて、自らの罪滅ぼしとしてパレスチナ人に対する「民族浄化」を1948年からずっと認めています。そのドイツ寄りの神学に日本の多くの神学校・教会が影響を受けていることを自省しなくてはなりません。

今日の小さな生き方の提案は、判断に迷った時の考え方です。その場その時に最も弱い立場に置かれている個人や集団を基準に、物事を判断するということです。これだけの情報氾濫社会です。真実を直視しようにも、何が事実か判別が難しいものです。事の大小にかかわらず、私たちは毎日判断に迷い、しかも毎分毎秒判断を迫られています。キリストの後ろを歩き、下に上る生き方を選んでいる私たちは、判断に迷う時、「どうすれば下に上れるか」を基準にして考えるのです。それはその場で最も小さくされている人に気づくことです。数にも入れられない人、人間扱いされていない人が誰なのか、自分の判断はその人の利益になるのか損失になるのかということに思いをいたすことです。家庭/学校/地域/職場/教会で、判断基準を磨きましょう。