群衆の苛立ち ルカによる福音書23章13-25節 2018年11月11日礼拝説教

ピラトは「イエス事件」の行政処分について、二つのシナリオを持っていました。一つは、領主ヘロデがイエスをガリラヤに連れて行って幽閉し処刑するというシナリオ(ヨハネのように)。こちらの実現を最優先に願っていました。しかしそれが叶わない場合もあります。政治家は常に次善の策を探るものです。

二つ目のシナリオは、イエスの身柄が再び自分のもとに戻ってくる場合、「ヘロデも無罪だと言っている」と群衆の前で主張することです。そしてイエスを釈放し、ガリラヤ民衆の反感を買わないように、ガリラヤ地方で反乱が起こらないように努めるわけです。「領主ヘロデもイエスを殺そうとしない。イエスを殺すことは得策ではない。これ以上ガリラヤ人を殺したくもない」。送り返されたイエスを前にピラトは、第二のシナリオを始めます。最高法院の議員たちとエルサレム住民を集めて、ガバタ(敷石の意)という専用の座席につき公開法廷を開くのです(13節)。

ユダヤ人のヨセフスが書いた歴史書の中に、ピラトの逸話が残っています。水道工事費用捻出のために神殿の宝物を用いたピラトに対して、怒ったエルサレム住民が総督官邸を取り囲んだ際のことです。ピラトはこの事態を予測し、あらかじめ暴徒の中に棍棒を隠し持ったローマ兵を多数紛れ込ませていました。ガバタから合図を出して、棍棒を持ったローマ兵が多くの住民を殴り殺します。ある者は逃げようとした仲間たちに踏み殺されて死にました。この有り様を見て、群衆は沈黙して、総督に反対する意見は圧殺されたというのです。

この事件を覚えているエルサレム住民の前で、ピラトはガバタでイエスの釈放を宣言します。「もしも自分に反対するならば、前と同じような虐殺事件を今起こしても良いんだよ」という脅迫を、群衆にしているのです。

ピラトは議員たちの前で群衆に語りかけます。「議員たちが連れて来たイエスを、私自身が議員たちの前で調べた。しかし告訴する理由は見出さなかった。ヘロデも告訴理由を見出さなかったから、こちらに送り返してきたのだ。イエスは死刑に当たることは何もしていないのだから、私は『二度と紛らわしい言動をするな』と教えた上でイエスを釈放する」(14-16節要約)。

「犯罪」(14・24節)と「罪」(4節)と訳し分けていますが同じ単語です。そして原意を汲むと「(告訴の)理由」「事由」と翻訳すべきでしょう。また、「鞭で」(16・22節)は訳しすぎです。全般に、ルカ版のイエスへの暴力は控えめです。鞭打ちもされず、茨の冠もかぶせられません。わたしたちは他の福音書の情報を「先入観」として、ルカ福音書に混ぜ込んでしまいがちです。ピラトはイエスに教育的な指導だけをして釈放しようとしたのです。

ピラトからすれば完璧です。イエス事件という面倒な事案を硬軟織り交ぜてうまく処理できました。脅しと理屈、さらには配慮も示し、ユダヤ人全体の意思をコントロールできるとピラトは考えていました。しかしこの場に集まる群衆は死の恐怖も振り捨てて、また死刑に関する合理的判断をも振り捨てて、ローマ総督ピラトに真っ向から反対をします。「あなたはこの男を取り上げよ。しかしあなたはバラバを我々のために解放せよ」(18節直訳)。

群衆には群衆の思惑がありました。このことはルカ版受難物語の特徴です。マルコ版受難物語は祭司長たちが群衆を扇動したと書いていますが(マルコ福音書15章11節)、ルカ版にはありません。群衆には議員たちと異なる意思があります。それは仲間の解放です。「自分たちの仲間であるバラバを解放し、バラバの代わりにイエスを取り上げて牢獄の中に入れろ」という交換条件を示して、群衆は議員たちの頭越しにピラトと交渉をし始めたのです。

この群衆とは誰でしょう。エルサレム住民をユダヤ人全体と考える点でピラトは見誤っています。ガリラヤから付き従った弟子たちは含まれていません。エルサレム入城の際に喜んだのはガリラヤからの人々です(19章37節)。親イエスの人々が、一週間で扇動されて反イエスになったわけではないのです。この場の群衆は基本的にユダヤ地方、特に首都エルサレムの住民です。エルサレム住民はガリラヤ地方の人々を蔑視していました。ガリラヤ人イエスの生命について無関心です。ピラトはエルサレムとガリラヤとの対立をよく理解せず、架空の「ユダヤ人一般」を想定しています。

エルサレム住民もまた重税に苦しんでいました。ローマ帝国への人頭税・通行税・関税、ユダヤ政府への住民税・神殿税。彼らの心の支えは、ユダヤ民族主義です。自分たちはガリラヤ地方住民、イドマヤ人・サマリア人とは異なる民族的エリートだという自負です。ヘロデの王家も理想とは異なります。いつか「純粋なるダビデの子」メシアがユダヤ人のみを救い、首都エルサレムを中心に独立国家を建てると期待していました。例えて言えば「いつか配給にあずかれることを期待して列に並んで待つ」という心構えです。

しかしいつまで経っても暮らしは良くなりません。古代社会です。九割以上が貧困層です。人々は苛立ちます。社会的強者・神殿貴族たちである最高法院に対しても不満はあります。しかしそれ以上に、少しでも優遇されていると思われる人が目に入ると、「自分の並んでいる列の前にその人が横入りした」ように感じるのです。やもめや、子どもや、外国人寄留者を優遇することは旧約聖書以来の美しい伝統ですが、それすらも許しがたくなります。弱い者がさらに弱い者を叩く。このような苛立ちが、社会から寛容さを奪います。

イエスは神殿の境内で一週間持論を教えていました。メシアはダビデの子ではないということや、寛容ということの大切さを伝えていました。エルサレム住民の中のある者は心酔し、ある者は反発します。誇りあるエルサレム住民を馬鹿にしている内容だと思ったから。また、サマリア人優遇・列の横入り容認のように思えたからです。イエスの「ガリラヤ訛り」の「きれいな言葉(神の義・隣人愛)」が耳につき、癇に触ります。

19世紀以来のイスラム教徒たちの苛立ち、米国の白人貧困層の苛立ち、ヨーロッパの移民排斥を訴える人々の苛立ち、日本でヘイトスピーチを行う人々の苛立ちに似ています。みな列に横入りをされたと感じ、みな自分の尊厳が脅かされていると感じています。苛立ちの前に「きれいな言葉(自由・平等・博愛・正義・寛容)」が色あせ、口汚く罵り合う醜い世界が現出しています。

過越祭を前にしたころ、苛立つエルサレム住民の仲間の中で、急進的な行動をとる三人の者が逮捕されました。暴動・殺人の疑いです。ローマ兵を殺したのかもしれません。「ユダヤ人の王」と名乗ったのかもしれません。苛立つ住民たちはこの事件に拍手喝采をしました。首謀者はバラバと言います(19節)。

普段はカイサリアという町に常駐していたローマ総督ピラトは、ローマ帝国に対する、バラバらによる反乱未遂事件鎮圧のために一部隊を出動してエルサレムに来ます。そして裁判を行います。もしかするとガリラヤの領主ヘロデも、このためにエルサレムに来て、参考人として意見を言っていたかもしれません。ヘロデは「バラバ以下二名はガリラヤ出身者ではなく首都の人だ。どうぞお好きなように」と証言をした可能性があります。ピラトは三名の被疑者に十字架刑での処刑をすでに言い渡しています。真ん中にはバラバ、その仲間の二人を右左につける予定でした。過越祭直前の処刑予定を組み、三本の十字架も準備しています。ピラトはすぐにカイサリアに戻る予定にしていたのでしょう。

植民地のユダヤ自治政府・最高法院は、このタイミングでもう一人の人物をもローマ帝国に殺させようと企みます。ナザレのイエスです。ピラトがエルサレムに居る時期しか機会はありません。彼らはピラトに四人の同時死刑執行を主張します。四本目の十字架がイエスのためのものになるはずでした。ところがピラトは、イエスの処刑を認めようとせず無罪放免にしようとします。実際四本も十字架を用意していません。即日仕上がるようなものでもありません。

ピラトがイエスを釈放すると宣言した時に、群衆は別の交渉をピラトに対して始めます。「四人のうち一人を釈放するつもりならば、イエスではなく仲間のバラバを解放せよ。さもなければ暴動を起こすぞ」。ピラトの脅しに対して、苛立つ群衆も脅しで返し、人質交換交渉を始めました。

ピラトからすれば無茶な要求です。バラバよりもイエスを釈放したほうが治安上はよっぽど良いでしょう。しかし、イエスを釈放すれば、今すぐエルサレムで暴動が起きてしまうかもしれません。そしてガリラヤでの反乱よりも、首都エルサレムでの反乱の方が行政官としての失点は大きくなります。

ピラトは二度・三度、苛立つ群衆をなだめようとします(20・22節)。しかし、群衆は「あなたが十字架につけよ、あなたが十字架につけよ、この男を」(21節直訳)と叫び続けます。そしてその声が、ピラトの声よりも優りました(23節)。ピラトはイエスに死刑判決を下し、バラバの死刑判決を取り消します(24節)。議員たちは前に出てきません。群衆が求めた通りに、ピラトはバラバを解放し、イエスを群衆の意思に引き渡しました(25節)。裁判官としての良心が負け、行政官としての出世欲が優先されたのでした。

エルサレムの群衆にとっては満額回答となりました。議員たちは四人とも殺されることを望んでいましたが、一部叶いませんでした。議員たちはイエスさえ死ねば良いと思い妥協します。群衆の意思が通り、獲得目標を勝ち取り、交渉事に勝利したのです。先週申し上げたとおり、十字架はピラトとヘロデの合作です。さらに今週、十字架はピラトと議員たちと群衆の合作でもあることが確認できます。三者の思惑は異なります。異なる利害を持つ三者の交渉事の狭間で、ナザレのイエスが殺されていきます。

イエスの十字架は人間の罪(告訴理由ではなく)を炙り出します。利害調整の話し合いの場でわたしたちは誰かを犠牲にしてしまうことがあります。その時わたしたちは隣人に上下をつけ優先順位をつけています。これが罪です。

苛立つエルサレム住民はイエスを選ばないことで勝ったと思いました。人々はこの時イエスが自分たちを選んだことを知りません。ルカ文書によれば、教会が創設されたのは首都エルサレムです。自分たちがイエスを殺したと自覚する者こそが、回心してイエスをキリストと信じ、悔い改めの道を歩むものなのです。苛立ってはだめです。しかし苛立ちは構造的なものです。「弱い者がさらに弱い者を叩く」という仕組みが、苛立ちを生むのです。十字架はその構造を破壊します。敵を愛するなら、どんな人の隣人にもなれるのなら、ストレス解消のための「さらに弱い者」は不要となるからです。ガリラヤ出身者が指導者となり、バラバの仲間であるエルサレム住民がキリストの教会を建て上げていきます。真の勝者は、逆説的ながら、十字架のイエス・キリストです。

今日の小さな生き方の提案は、わたしたちの苛立ちの根源に目を向けることです。わたしたちは比較の世界から解放されなくてはいけません。誰かと比べて安心したり、逆に不安になったりする時に、不公平感をもって苛立ちがちだからです。わたしたちに必要なことは絶対的な肯定を受け入れることです。十字架のイエス・キリストはわたしたちに苛立っていません。常に尊重し愛し続けています。わたしたちがイエスに苛立つ敵である時にも。この愛を信じるときに、わたしたちは贖われ、苛立ちと弱い者いじめから解放されます。