見ないで信じる ヨハネによる福音書20章24-31節 2014年11月23日礼拝説教

ヨハネ福音書はあまり有名ではない弟子たちに着目します。国際派のフィリポやアンデレ、ディディモ(双子の意)と呼ばれるトマスなど、他の福音書では「十二弟子の一人」程度の紹介しかされない人々が活躍します。またナタナエルやニコデモなどヨハネ福音書にしか登場しない弟子もいたりします。トマスという人物は二回目の登場です(11:16)。少し振り返って、トマスがどのような人物であるのかを掘り下げてみましょう。

11章はラザロが病気にかかり死に、その彼をよみがえらせるためにイエスがベタニア村のマルタ・マリア・ラザロ宅に行こうとする場面です。イエスの後ろに従って、「わたしたちも彼と共に死ぬために行こう」と語ったのがトマスです。ここの「彼」はラザロとも考えられるし、「イエス」とも考えられます。いずれにしろトマスには、苦難を体験する者に殉ずる態度があります。殉死・殉教の精神です。それはある意味ではイエスの似姿です。だからこそ、ディディモ(双子)というトマスのあだ名が、紹介されているのでしょう。死と復活が主題となるとき、トマスはどうしても登場しなくてはいけない人物なのです。

こう考えると、イエス逮捕のあの場面、トマスは何をしていたかが気になります。ヨハネ福音書では弟子たちは逃げません。ローマ兵たちの強制排除に遭ったとわたしは推測しています。トマスはイエスと共に逮捕される覚悟で最後まで抵抗していたのではないでしょうか。官憲によりごぼう抜きされ、そこで傷だらけになり、十字架の主と似た姿になった。つまりローマ兵の侮辱により死体に槍を刺された方と似た体験をしたのではないでしょうか。彼は十字架刑のときにあの六人と一緒に居られませんでした。それは体力的に損耗していたからかもしれません。

トマスだけがイースターの夕方に仲間の場所に居ないということは(19-24節)、トマスが自由に外に出ているということです。ニコデモやヨセフなど匿っている仲間たちのために見回り・警護をしていたことを示唆します。トマスは気骨もあり、機転もきく、信頼されていた弟子なのです。後に「トマス福音書」(外典)に名前を冠されるほどに、重要な弟子です。なお、「トマスがイエスの双子の弟だった」ということがディディモの由来ではなく、「トマスという名前とアラム語トーマが似ているために付けられたあだ名だった」というのがディディモの由来でしょう。

今日の箇所は、元々のヨハネ福音書の締めくくりです。21章以下が著者よりも後の時代の付け加えであることについては、学者の中でも余り異論はありません。本の結びに著者は自分の言いたいことを凝縮させて記すものです。29節が、その凝縮・結晶です。「見ないのに信じる人は、幸いである」。ここにヨハネ福音書の主張があります。

「見ずに信じる幸い」は、「見えると言い張る罪」(9:41)と関係しています。どちらもヨハネ福音書にしかないイエスの言葉です。見えると言い張る行為は、自己絶対化という倒錯を起こしている人間のありようを示します。それを根源的な罪、「原罪」と呼びます。ちなみに9:41の「罪」は単数形ですから、一つ二つと数えることができないもの、また二つ三つと割ることができないものが、ここで表現されています。それが根源的な倒錯・人が普遍的に持っている原罪です。自己絶対化とは、「自分の考えは絶対に正しい、自分だけが見えている、誰よりも分かっている、だから他人からの批判を許さない」という態度です。これが罪の典型です。

ギリシャの哲学者ソクラテスは、「無知の知」ということを提唱しました。彼は街に出て行って、特に若い人に話しかけます。「あなたは『無知の知』を知っているか」。この問いに込められたソクラテスの真意は、「自分が知らないということを知っているか。知者といえども知らないことが多くあり、実は多く知るということは、さらに知らないことが多いと実感することなのだ」という逆説的な事態です。知識を得ることは謙虚な態度に人を導くはずです。ソクラテスは「産婆術」と彼自身が名付けた方法で、「知っていると言い張る人の頑固さ」を対話によって変えていきます。面と向かってソクラテスの人格に信頼を寄せていくときに、自分の自己絶対化という傲慢が崩され柔らかくされていきます。ソクラテスもまた「助産師」として、「子どもを生む主体」に喩えられる対話相手を信頼するから、この対話が成り立つのです。

「無知の知」と「見えると言い張る罪」は同じ事柄を言い当てています。自分は知っている・見えているという人は鼻持ちならない傲慢さを身に帯びています。しかし本人はその問題性に気づきません。正に倒錯しているのです。

それに対して、見ずに信じるという行為は、他者への信頼に基づく行為です。著者ヨハネは、墓の中にイエスを見出せない状況から、イエスの復活を信じました(20:8)。彼は復活のイエスを見ていません。しかし、その時点でイエスがよみがえらされたことを信じました。どうしてそれが可能だったのでしょうか。生前のイエスに対する信頼が強かったからです。イエスを愛し、イエスに希望をおいていたからです。お互いを懐に入れ合う交わりが、イエスとヨハネにあったからです。

マグダラのマリアは復活のイエスを見ました。他の弟子たちは、マリアを信頼していたので、マリアの報告を聞いて信じ始めていました(18節)。そしてその彼ら/彼女らのところにも復活のイエスは現れました。マリアとまったく同じ言葉を他の弟子たちも語ります。「わたしたちは主を見た」(25節)。

トマスに必要なことは、その報告を語る仲間たちを信頼することだけだったのです。あるいは、対話的であれば良かったのです。「絶対にありえない」と言い張らず、もしかすると仲間が言っていることに自分の知らない真実があるかもしれないと考えれば良かったのでしょう。トマスは自己絶対化という倒錯に陥っていました。仲間の中で信頼されている人物にこそ陥りがちな倒錯です。また、殉死・殉教精神の持つ弱点がここにあります。「死んでも従う」的な信仰告白は、思考として硬直化しやすいので、隣人の声を聞けなくする場合があります。

「実際に体に触れなければイエスの復活を信じない」とまでトマスは言ってしまいます(25節)。これは明らかに言い過ぎです。触って信じるなどということは、およそ信仰とは異なります。彼はおそらく自分がイエスのために傷つき半殺しにされたことをも思い出し、自分もローマ兵に暴行されたということを一種の自慢としてもひけらかしていたのではないでしょうか。イエスは殺された、自分も殺されかけた、この現実を仲間たちも受け入れるべきだと言いたかったのではないでしょうか。これがトマスへの弁護です。とはいえ最大限善意に解釈しても、トマスの言っていることは、仲間への不信、その裏返しとしての自己絶対化です。ここには平和がありません。

だから、26節のイエスの言葉は「あなたがたのために平和(があるように)」と訳したいところです(19・21節参照)。新共同訳と似た立場です。トマスとその他の弟子たちとの交わりにひびが入っています。それこそ罪の結果、罪の効果です。人は人の間で生きるはずの動物です。にもかかわらず倒錯を起こして、共に生きられなくなっているのです。その罪を贖い、ひびを癒すことができるのは、十字架と復活のイエス・キリストです。

復活のイエスは人々の真ん中に立ちます。特にこの場面では真ん中でなくてはいけないでしょう。彼ら/彼女らがまん丸を作れなくなっていたからです。トマスだけが対面していたり、トマスだけが背中を向けていたりした、歪んだ交わりだったからです。イエスが真ん中に立つとき、正しく円が形づくられます。共に食卓を囲むようなイメージです。それこそ、ヘブライ語のシャロームのイメージです。平和と訳されるシャロームは「円満」というような意味です。イエスを中心にした、きれいな円がシャロームの具現と言えます。

イエスはトマスに語りかけます(27節)。「わたしはあなたの発した言葉を知っているよ。仲間を信頼し、わたしの復活を信じなさい」という意味の優しい言葉かけです。この時、トマスは自分がイエスに知られているということを知ったのです。また、イエスがただトマスだけのためにもう一度現れたということを知ったのです(イエスは少数者を大切にする)。さらに、仲間たちが「わたしは主を見た」「わたしたちは主を見た」と言った言葉の真実を知り、自分の根源的な倒錯を知ったのです。無知の知の瞬間です。

「わが主、わが神」(28節)。このトマスの言葉をみなさんはどのようにイメージして受け取られるでしょうか。これを勇ましい信仰告白の典型例として考える解釈者もいます。その上で、この言葉をヨハネ福音書の中心とまで祭り上げる解釈者もいます。わたしはそうではないと思います。トマスは自分の小ささと、イエスの大きさに触れ、恥ずかしくなり仲間の間で肩身の狭い思いをしながら小さな声でうつむきながら「わが主、わが神」とつぶやいたと推測します。ここから悔い改め・人生の生き直しが始まります。

勇ましい立派な信仰告白は、まったく皮肉なことに、自己絶対化という倒錯を引き起こしかねない危うさを孕んでいます。自分が強いと過信するからです。真理はむしろ逆です。自分が弱いと知る時にわたしたちは強いのです。なぜかといえば、復活のイエスに知られていることを知るからです。イエスを知っているかのように誤解してはだめです。大いなる方の一断面しかわたしたちは知りえないのです。むしろただ知られているに過ぎません。

こうしてわたしたちは自分に対してではなく、ただイエスに対してのみ信頼を寄せることができるようになります。そして自分に寄り頼むのではなく、仲間に信頼を寄せることができるようになります。仲間の語る言葉を「稚拙な信仰告白」と裁くのではなく、その言葉に聞き入り、その言葉の真実味を味わい、その言葉に「アーメン」とつぶやき、自分のありようを問い直し吟味することができるようになるのです。これが正しい円をつくります。

12月10日に特定秘密保護法が施行されます。野党や無所属議員らが、施行延期法案や廃法法案を出しましたが解散により廃案となりました。稀代の悪法は警察国家による思想・信仰弾圧へと導くでしょう。キリスト教会内で「弾圧下でキリストへの告白を死ぬまで堅持せよ」の類のスローガンがすでに出始めています。それは正しいし抵抗も必要です。その一方でトマスの自己絶対化が起こらないように、殉教思想に流れないようにと危惧しています。より大切なことは、そのような思想弾圧を起こさせないことです。

今日の小さな生き方の提案は、自分の小ささを受け入れるということです。その上でイエスに見られ・知られていることに安心することです。そして隣人の声を聞く姿勢を持つことです。これらの一連が罪の贖いです。見ないで、イエスを神の子キリストであると信じることです。この幸いな生き方にすべての人が招かれています。招きに応えて永遠の命を分かち合うシャロームの交わりを共にかたちづくりましょう。幸いだ、見ないで信じる人。その人たちは永遠のいのちを分かち合う。