豊かな実り マルコによる福音書4章3~8節 2021年10月24日礼拝説教(村上千代牧師)

今日の礼拝の聖書箇所は、マルコによる福音書から選ばせていただきました。先ほど読んでいただいた4章3~8節の種まきのたとえ話は、マタイによる福音書(13:1-9)、ルカによる福音書(8:4-8)にも書かれています。いわゆる共観福音書とよばれるマタイ、マルコ、ルカのすべての福音書に書かれているたとえ話です。それに、正典には入れられなかった「トマス福音書」(イエスの語録集)にも書かれており、このたとえ話は、おそらくイエス自身が語ったものであろうというのが、多くの聖書学者たちが認めていることです。

 

共観福音書を読み比べてみると、話の内容は同じですが、表現に微妙な違いがあることが分かります。

マルコでは、3節「よく聞きなさい」で始まり、9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」の言葉で終わっています。

マタイでは、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」で始まり、「耳のある者は聞きなさい」で終わります。

ルカでは、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」で始まり、最後は、「聞く耳のある者は聞きなさい」に「大声で言われた」が付け加えられています。

福音書は、イエスの言葉や行いの伝承を通して、神と神の国に関する良き音信を語り、イエスとは何かを証ししている書物です。それは、信仰共同体の信仰告白として書かれたものだとも言えます。ですから、同じ「たとえ話」でも、福音書が書かれた時代状況や、教会の内部的状況によって書き方が少し違ってくるのです。

マルコの冒頭の言葉「(よく)聞きなさい」(原文では「聞きなさい」)は、マタイとルカにはありません。マルコが「聞きなさい」で始めて「聞く耳のある者は聞きなさい」で終わっているのには、当時の教会の状況が背景としてあることが考えられます。

マルコ福音書が書かれたのは70年前後というのが、今日における一般的傾向です。70年前後ということは、イエスの十字架刑死から約40年という年月が経って書かれたことになります。

イエスを見捨てた弟子たちは、神の愛とゆるしによって再びイエスの弟子として召され、悔い改めて、イエス・キリストを宣べ伝える群れ、教会をつくりました。教会が設立されてから40年も経てば、新しいメンバーも加わり、第一世代から第二世代へと世代交代も始まる次期です。教会設立当初の第一世代の熱い思いが、だんだん弱くなっていく状況があったかもしれません。今日の教会もそうですね。第一世代が伝道所をスタートし、教会組織から40年も経てば、教会の様子が変わるのは当然のことです。

教会設立から約40年のマルコ共同体には、さまざまな問題や課題が生じていたことが考えられます。教会が揺れ、混乱することや、信仰から離れ、教会から離れていく信徒もいたでしょう。福音書は、そのような教会の状況の中で書かれ、信徒たちが信仰者として整えられるために教会で用いられました。そこには、イエス・キリストの信仰の原点に立ち帰る促し、自らの信仰の決断、信仰の覚醒、福音による励ましなど、福音書記者の意図があって編集され、イエスの言葉や行いの伝承を通して神と神の国に関する良き音信が伝えられているのです。

前置きが長くなりましたが、今日の本題に移りたいと思います。

今朝は、マルコ4章3~8節を選んでいますが、その後に続く20節まで読むと(後でじっくり読んでください)、「読み方」「語り方」によっては、信仰が弱くてもろい自分に落胆したり、ダメな自分が責められているように感じたり、聖書をしっかり読んで教会生活も頑張らなきゃと思わされたりする箇所です。皆さまはどうですか。

福音書は、執筆者がイエスの言葉や行いの伝承を基に、意図をもって言葉を書き加えて編集している書物ですから、20節までの言葉のすべてがイエスによって語られたものではないことは明らかです。では、イエスはガリラヤで、このたとえ話を通して苦しい現実の中にいる聞き手にどのように励ましを伝えようとしていたのか考えてみましょう。

イエスが語った言葉に遡って研究している聖書学者がおられます。イエスの言葉だけを取り出して、そこから福音を聴く時に、このたとえ話が違った響きをもちます。今朝は、イエスの言葉だけに集中して、皆さんとご一緒に福音を聴いていきます。村上なりに訳してみました。

聖書学が専門の山口里子さんは、下線部分の言葉がおそらくイエスの言葉であり、このたとえ話はイエスに遡るオリジナル版だと多くの聖書学者たちが認めていると言われます。下線部をお読みします。

 

聞きなさい。見よ、種をまく人が種まきに出て行った。そして起こった、種をまいている間に。ひとつの種は落ちた、道端に。そして鳥たちがやってきた。そしてそれを食べた。そしてひとつの種は落ちた、土の少ない石だらけの所に。そしてそれはすぐに芽を出した。土が深くなかったからだ。そして太陽がのぼったら、それはすぐに焼けた。そしてそれは根をもたないので枯れた。そしてひとつは落ちた、いばらの中に。そしていばらが育って、それを窒息させた。そして実を実らせなかった。そして他のは落ちた、よい土に。そしてそれらは実を結び続けた。そして芽を吹き出して、増えて、実を結び続けた。一つが30倍に、一つが60倍に、一つが100倍に。

 

イエスの宣教活動の中心はガリラヤでした。当時、ガリラヤの民衆のほとんどは貧しい農民で、宗教文化的には「異邦人のガリラヤ」(イザヤ8:23)とユダヤ教主流からは侮蔑され続けていたユダヤ人たちでした。ガリラヤ農民は、ローマの圧政の下、ローマへの税金、ユダヤ「王」への税金、神殿税の三重の税金を負わされ、その上、神殿への献納物、さらには建築労働が課せられ、農民たちは負債と飢えに追いやられていたと言われています。農業は自然に左右されますから、豊作の時もあれば凶作の時もあります。自然が相手ですから、自分の努力ではどうにもならないことが起こります。どんなに働いても貧困に苦しみ、絶望的にさえなるガリラヤ農民たちに、イエスは神の国の福音を宣べ伝えて歩まれたのです。

わたしは実際に種まきを見たことはありませんが、絵画で見ると、手につかんだたくさんの種を耕された畑にパーっとまき散らしています。パーッとまき散らすので、中には、耕された畑に落ちないで他のところに落ちる種もあるでしょう。

イエスは言われます。種の一つは道端に、一つは土の少ない石だらけの所に、一つはいばらの中に、そしてその他の種(複数)は、よい土に落ちた、と。道端に落ちた種は鳥に食べられ、石だらけの所に落ちた種は、すぐに芽を出したが、根がないので枯れ、いばらの中におちた種は、いばらが育って窒息させ、そしてよい土に落ちた多くの種は、実を結び続けたと語ります。

農民たちは、多くの収穫を期待して種をまきます。しかし、よい土から外れて、鳥に食べられたり、枯れたりするものもあれば、農業は自然に左右されますから、どんなに頑張っても期待どおりの収穫があるとは限りません。期待して種をまいても豊かな実りがなく失望することが多々ある農民たちに、イエスは、畑から外れて落ちた種は単数形で、よい土に落ちて実を結び続ける種は複数形で語ることによって、希望を伝えようとしています。つまり、外れは少しで、多くはよい土に落ちるのだと。8節の言葉は、「いつも失望で終わってしまうわけではない。必ず収穫の喜びの時はやって来る」という農民の期待への肯定と希望の言葉です。しかし、当時のガリラヤ農民のおかれていた状況を考えると、イエスはもっと深い意味を込めて希望を語っていたのではないかと思わされます。

ガリラヤの人々は、ユダヤ教の主流からは侮蔑され続けた存在でした。そして農民たちは、貧困ゆえに「戒め」を守れず、「罪びと」とレッテルを張られ差別されていた現実がありました。重税を負わされ、貧困にあえぎ、差別されていた農民たちに、イエスはこのたとえ話を通して、「あなたがたは、神の祝福から遠ざけられた者ではない。神は、一生懸命生きている人々を見捨てるような方ではない。いのちを支える道を必ず開いてくださる。だから安心して神を信頼して生きよう」と、神の国の希望を伝えているのではないかと考えられます。そして、その希望は今生きているわたしたちにも語られているのです。

わたしたちは、昨年からコロナによって、これまで当たり前だったことが、当たり前ではなくなり、日常生活も、仕事も、学校も、教会も、社会全体が大きく変化させられています。また、コロナの中で取り残されていく人々が増え続け、深刻な社会問題となっています。多くの人が職を失い、非正規雇用の人々の生活は益々苦しくなっている現実を知らされています。そこには、個人の努力だけでは解決できない大きな社会構造の問題があります。そして、さらにコロナによって、自分の努力ではどうにもならない現実の中で苦しんでいる人々に、教会はどんな希望を示すことができるのだろうかと考えさせられます。苦しみの真っただ中にある人に向かって「いつも失望で終わってしまうわけではない。豊かな実りの喜びの時は必ずやって来る。安心して神に信頼して生きよう」と言葉だけを伝えても、その人の救いにはならないでしょうし、逆にその人を傷つけてしまうことにもなりかねません。どうすればよいのか悩みます。

もし、わたしたちに何かができるとすれば、わたしたち自身が世の中の現実に無関心にならず、イエス・キリストの希望に信頼して、主の助けを祈り、苦しい現実の中で生きている人たちに連帯していくことではないかと考えます。その連帯の中に、失望している人々が希望を見出し、わたしたち自身もキリストの希望に励まされるのではないでしょうか。

そして、社会構造の問題を解決するために、わたしたちは何をなすべきか、何ができるか、それぞれが考えてみたいと思うのです。