過ちを思い出す 創世記41章1-14節 2020年1月12日礼拝説教

1 そして二年の日々の終わったときから以下のことが起こった。すなわち、ファラオは夢を見、そして見よ、かの運河(ナイル川)に接して立ち尽くしている。 2 そして見よ、かの運河から七頭の雌牛たちが上っている、姿が美しく肉が肥えているのが。そして彼女たちは草むらで草を食べた。 3 そして見よ、それらの後にかの運河から別の七頭の雌牛たちが上っている、姿が悪く肉が貧弱なのが。そして彼女たちはかの運河の岸辺に接したかの雌牛たちの傍に立った。 4 そして姿が悪く肉が貧弱な雌牛たちは、姿が美しく肥えた雌牛たちを食べた。そしてファラオは目覚めた。 5 そして彼は眠り、再度夢を見た。 そして見よ、一本の茎の中に七つの穂が上っている、肥えて良いのが。 6 そして見よ、細く東風に焼かれた七つの穂がそれらの後に芽生えた。 7 そして細い穂が肥えて満ちている穂を呑んだ。そしてファラオは目覚めた。そして見よ、夢(だ)。

 献酌官たちの長が復職し、調理官たちの長が処刑された日から、丸二年が経ちました。ヨセフがエジプトに来てから13年が経ったことになります。そんなある日のこと、エジプトの最高権力者ファラオが夢を見ます。

 直訳は「かの運河」(1節)ですが、明らかにナイル川のことです。「エジプトはナイルの賜物」と呼ばれます。ナイル川の氾濫が岸辺一帯に豊かな土壌をもたらします。「草むら」(2節)は、エジプト後由来の言葉です。ナイル川によって培われた豊かな沼地のことを意味します。その豊かな土地を見渡すために、ファラオはナイル川に面して立ち尽くします。1-7節には、現在進行形が多く使われています。「立ち尽くしている」(1節)、「上っている」(2・3・5節)と訳している箇所です。夢の情景だからでしょう。瞬く間の場面転換を、すべてファラオはナイル河畔に立ち続け見続けているのです。

 これまた夢であるからでしょう。「そして見よ」が、6回も用いられています。驚くべき情景が、次から次へと繰り広げられていることが伝わってきます。それはおよそありえない光景です。ナイル川の中から七頭の雌牛が、二回登場し、後から登場した雌牛が――草食であるはずの雌牛が――、先にいた雌牛を食べたというのです。そして、先にいた雌牛の方が太っており、後からきた雌牛の方が痩せていたというのです。小さいほうが大きい方を食べるとは。

 ファラオは一度目が覚めます。嫌な寝汗をかいています。しかしもう一度気を取り直して寝直します。次の夢も似たような内容でした。先にあった豊かな穂が、後から出てきた細い穂に、呑み込まれたというのです。普通、穂は穂を食べません。口も胃もありませんから。これまた荒唐無稽の夢です。そしてこれまた小さい方が大きい方を呑み込んでいます。ファラオはここで目を覚まします。一つの夜に、一人の人が、二つの似たような夢を見ています。

ここで読者は、一つの夜に見た二人の夢を思い出します。献酌官の夢と調理官の夢は似ていました。しかし実際に二人に起こったことは正反対でした(40章)。さらに記憶力の良い読者は、子ども時代のヨセフが見た夢を思い出します。一人の人ヨセフが別の日に見た二つの夢はとてもよく似ていました(37章)。そして実際に起こったことは同じことでした(42章)。

 ここで一人の人ファラオは、一つの夜に、二つの似た夢を見ています。実際に起こることは何なのでしょうか。物語は極めて上手い仕方で、読者に物語の先の展開を推測させないように仕組んでいます。私たちはヨセフの夢解釈を待たなくてはなりません。

8 そして朝に、彼の霊が掻き立てられ、彼は遣わし、エジプトの全ての魔術師およびその全ての知恵者たちを呼び、ファラオは彼らに彼の夢を説明した。そしてそれらをファラオのために解釈する者はいなかった。 

 ファラオは次の朝、全存在が揺さぶられます。彼の霊(ルアッハ)は彼の命そのもの、人生そのものです。ギリシャ語訳聖書はこのルアッハをプシュケー(魂、生命)と翻訳しました。そのような意味合いでしょう。エジプト全土を統治するファラオの全存在が問われるような出来事の前触れを感じ取ったのです。ナイル川河畔に立ち続けるという異常な状態に置かれていることが、エジプト全土に何かが起こる予兆に見えてならないわけです。そして夢の結末はあまり明るいものではありませんでした。

 エジプトの高官たちはそれぞれお抱えの夢解釈者を雇っていました。ファラオはエジプト全土に君臨する現人神です。だから、全ての夢解釈者は、ファラオから召し出されたら、王宮に集まらなくてはいけません。「魔術師」(8節)をギリシャ語訳聖書は「解釈者」としています。事態を的確に描写するための意訳です。解釈者たちは、その当時のエジプトに存在した夢解釈のための「基準」を用いて、ファラオの見た夢の意味を探ります。

 「知恵者」はエジプトに多くいました。エジプトは知恵文学と呼ばれる文化が花開いた文明先進地です。多くの知恵者たちが、諺、格言、譬えを豊富に生み出しました。そこから聖書にある箴言の内容も影響を受けていることは明らかです。知恵者たちは過去の経験知から、これからファラオの身に起こることを推測します。

 しかしながら当時の「最先端の科学」を駆使しても、ファラオの見た二つの夢を解釈するものは誰もいませんでした。

9 そして献酌官たちの長がファラオに語った。曰く、「私の諸々の罪を私は今思い出そうとしている。 10 ファラオは彼の奴隷たちに関して激怒し、私を死刑執行人たちの長の家の監視の中に与えた。(いや)私と調理官たちの長を。 11 そして私たちは一つの夜に夢を見た、私と彼が。私たちはそれぞれその解釈にしたがう夢を見た。 12 そしてそこに私たちと共に、ヘブライ人の若者・死刑執行人たちの長に属する奴隷が(いた)。そして私たちは彼に説明し、彼は私たちのために私たちの夢を解釈した。それぞれその夢にしたがって彼は解釈した。 13 そして彼が私たちのために解釈したとおりのことが起こった。そのように(状況は)なった。私を彼が私の職位に戻し、彼を彼は吊るした。」

 王宮中が大混乱に陥っている中、一人の宦官が立ち上がります。ファラオを補佐する献酌官たちの長です。二年前、ヨセフの夢解釈によって福音を聞き、そして夢解釈通りに再びファラオの最側近になることが許された人物です。彼はここで、現在進行形・使役態を用いて搾り出すように語ります。「私の諸々の罪を私は今思い出そうとしている」(9節)。彼は一言一言を振り絞り、一つ一つの罪を思い出そうとしています。思い出しながら振り絞って語っています。

 一つ目は、ファラオを怒らせたことです。「罪」(10節)という単語は、40章1節「過ちを犯し」(新共同訳)の名詞形です。宗教的な意味合いが強い言葉なので、ファラオの神聖性を貶めるような行いをしたのかもしれません。いわゆる不敬罪です。これはファラオへのリップサービスでしょう。

 二つ目は、「調理官たちの長」のことを忘れていたことです。10節でも末尾に慌てて、「私と調理官たちの長を」と付け加えているとおりです。11節になってやっと、「私と彼」が「私たち」になっています。献酌官は、あの円形の家における一週間ほどの軟禁生活(死刑執行前の極限の緊張状態)を忘れ去ろうとしたのです。生き残った者が抱える罪責感を軽くするための防衛本能かもしれません。隣人を忘れる罪です。

 三つ目の罪は、二つ目の罪に伴って、一人のヘブライ人をも忘れ去っていたことです(12節)。ヘブライ人は、二人の夢解釈という、特段しなくても良いことを買って出てくれました。しかも、献酌官にとって福音となる預言をしてくれました。その時、本当に嬉しかったことを、献酌官は今さらながら思い出させられました。なぜ福音宣教者を忘れたのか、この罪を悔い改めています。

 四つ目の罪は、ヘブライ人の願い、ヘブライ人との約束を忘れたことです(13節)。彼は、「めでたく復職した折には、ファラオに向かって私を思い出させるように」と願い、自分は「必ずその通りにする」と調子の良い約束をしたのでした。自分は不誠実だったと、献酌官は罪を悔い改めています。

 今こそ献酌官はヨセフとの約束を履行します。彼は一連の「諸々の罪」を悔い改めて、ヨセフのことを夢解釈者として推薦します。「このヘブライ人の夢解釈は正確です。歴史は彼の預言通りに進みます。彼にはエジプトの夢解釈とは違う何か別の基準があります。解釈というものは神に属すると、彼は信じています。ヘブライ人特有の預言というものです。彼が解釈した通りに、歴史を神が導くのです。彼/神が私を復職させ、彼/神が調理官を吊るしたのです。どうかあの若いヘブライ人を呼んでください。死刑執行人たちの長ポティファルの家に付設された、あの円形の家から、王の囚人を呼び出してください。そうすればファラオの夢は正確に解釈され、彼の解釈が歴史を創るはずです。」 

14 そしてファラオは遣わし、ヨセフを呼び、彼らは彼をかの穴から急かし、彼は(髪と髭を)剃り、その衣服を着替え、ファラオのもとに来た。

 ファラオの決断は早いものでした。それほどに、献酌官たちの長という地位には重みがあったのです。また、この献酌官たちの長の言葉に真実味もありました。「自分が間違えだった」や「あの人が正しかった」という率直な告白は、中々言えない言葉です。38章26節のユダの罪責告白と、41章9節の献酌官たちの長の罪責告白は、悔い改め砕かれた魂によって出された言葉です。このような告白は、抽出されたおいしいコーヒーというべきか、濾過されたきれいな水というべきか、人を動かす力を持ちます。

 この日は別にファラオの誕生日でもありません。恩赦という枠組みでもなく、ただファラオがヨセフを必要だという理由で、王の囚人・ヘブライ人の若者ヨセフは釈放されます。再び「穴」(ボル)が用いられています(40章15節参照)。単に円形の家からの釈放ではなく、37章で突き落とされた「穴」、つまり「人生のどん底」からヨセフは解放されます。

 当時のエジプト人の神官たちや行政官たちは、髪と髭をすべて剃り落としていました。ヨセフは軟禁と同時に剃ることが許されない身分(囚人)となりました。エジプト社会において、エリートであるかないかははっきりと見た目で区別されていたのです。3年間伸び放題だったヨセフが髪と髭を剃ったということは、この時点でヨセフが高級官僚として王に任用されたことを意味します。ファラオは夢解釈者としてヨセフをまず雇い、正式に行政官・神官としての服を着せて仕事を託したのです。

 今日の小さな生き方の提案は、一所懸命に諸々の罪を思い出すことです。聖書の信仰は――特にバプテストも含む西方教会の伝統に従えば――、人を罪の告白と悔い改め(生き直し)へと導きます。自分が誤りの多い、弱さを抱えた、限界ある人間に過ぎないと思い知ることは、人に謙虚さを与えるので良いことです。謙虚さをくぐり抜けて、わたしたちは生き直すのです。献酌官は罪を絞り出すように思い出し、二年後に約束を実行します。悔い改めるのに遅すぎることはありません。わたしたちは常に生き直すことができます。生き直すために過去の罪を一つずつ絞り出して数え上げるのです。