隅の親石 ルカによる福音書20章9-19節 2018年6月3日礼拝説教

神殿の境内での話し合いは続きます。ルカ福音書20章1-40節は、マルコ福音書11章27節-12章27節を丸ごと写したものです。話の順番も一緒です。5日間ほどイエスは、宿泊先(ベタニヤ村のマルタ・マリア宅)とエルサレム神殿を往復し、独自の「礼拝」を行っていました。イエスの聖書解釈に応答していくというかたちの礼拝です。その場には、論敵がいても構いません。異なる意見との論じ合いも、礼拝の一部です。まずはわたしたちの礼拝にとって指針となることがらを取り上げます。

17世紀英国で発生した初代のバプテスト教会でも、似たような礼拝が行われていました。説教者が複数立って、それぞれの解釈がぶつかり合うということもあったと記録されています。礼拝もまた運動のひとつであり、運動こそバプテスト教会の本質です。さまざまな声が響き合う礼拝をどのように形成していくかを、バプテスト教会は常に課題として考える必要があります。

先週、イエスとやりとりをした権力者たちは(1節)、今週の箇所にも居残っています(19節)。彼らはこの礼拝に巻き込まれています。マルコ福音書12章1節によれば、イエスは引き続き「彼らに」話しかけています。それをルカ福音書は、イエスが「民衆に」話し始めたとして、聞き手を変えています(1節)。この改変により、両者だけの対話が、そこに集まっている会衆全体のことがらに広がります。ルカ福音書は、両者の対話を国会での審議のようなかたちで報告します。国会議員が語る言葉は、わたしたちに向けられている言葉です。全体の代表者同士の話し合いだからです。礼拝もまたそのような公性を持っています。招きの聖句は始めの祈りと響き合い、始めの祈りは説教の聖句と、また説教は応答の祈りと響き合います。そこで言葉を発していない会衆も、共感することで巻き込まれていきます。たとえば「そんなことはあってはいけない」(16節)とか、逆に「アーメン、その通り」とかの共感です。聖霊が導く礼拝には、対話による交流があるのです。そのような礼拝を心がけていきましょう。

次にイエスのたとえ話本体に移ります(9-16節)。それは礼拝における対話の内容を教えます。このたとえ話は、イスラエルの歴史をまとめたものです。教会の礼拝においては、わたしたちの歴史認識が問われます。わたしたちは世界の歴史を、どのように振り返り、どのように見渡しているでしょうか。

ぶどう園を作り、農夫にそれを貸して長い旅に出た「ある人」(9節)は、神をたとえています。「農夫たち」(9節)は、イスラエルという神に選ばれた民をたとえています。このたとえ話は選民思想を大前提にしています。注意しなくてはいけないのは、神から選ばれたということは、神への責任を持つということでもあるということです。神は世界というぶどう畑を、イスラエルに貸しました。イスラエルは神から借りた世界というぶどう畑を耕し、毎日精魂込めてぶどうを育て、ぶどうの実を収穫し、それを貸主である神に返さなくてはいけません。エデンの園が、一般的に誤解されている「楽園」などでは決してなく、園での農作業が人間の責任として課せられているのと同じです(創世記2章15節)。そして「耕す」というヘブライ語アバドは労働も礼拝も意味します。

神を毎週礼拝しながら、毎日世界を耕す責任が、イスラエルに(そして教会にも)あります。キリスト教会が人権抑圧の旧弊を改めつつ人権思想を発展させ、病院・孤児院・学校を作っていったことは、世界を耕すことと考えて良いでしょう。ぶどうの収穫というものは、このような「悔い改めにふさわしい実」(3章8節)です。収穫を主人に返すことは、礼拝の中で、「神さまからお借りしている畑で、このような実りがありました。このことを、神様に感謝して報告いたします。栄光は神に。」と祈ることです。

ところが旧約聖書の時代からイエスの時代に至るまで、イスラエルの歴史の中で、農夫たちは耕すことをさぼり収穫を十分にあげませんでした。殺伐とした世界の中で、良心的な行動を取りませんでした。また、神から良いことを与えられても、神に栄光を返すことをしませんでした。

「僕」(10節)は、預言者をたとえています。旧約聖書には多くの預言者が登場します。彼ら・彼女たちは、神からの伝言としてイスラエルに警告を発し続けていました。「神に立ち返れ。良心的な行動をとれ。神を愛せ。隣人を愛せ」と、王や民に向かって語りかけました。たとえばイザヤという預言者は、イスラエルをぶどう畑にたとえて、このままでは神はイスラエルを見捨てると警告しています(イザヤ書5章1-7節)。

しかし、イスラエルは神の僕である預言者たちの伝言を聞きません(10-12節)。僕たちを暴力的に追い返し・放り出す農夫たちの姿は、預言者の警告を無視し預言者を迫害してきたイスラエルのたとえです。三回にわたり繰り返されているのは、イスラエルの長い歴史が、神の伝言を軽んじる過ちの繰り返しであったことを意味します。このような歴史認識はイエスの独創ではありません。ネヘミヤ記9章26節にこう書いてあるからです。「しかし、彼らはあなたに背き、反逆し/あなたの律法を捨てて顧みず/回心を説くあなたの預言者たちを殺し/背信の大罪を犯した。」イエスはイザヤ書もネヘミヤ記も知った上で、民衆にたとえ話を語っています。

そこでぶどう園の主人は言った。「どうしよう。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」(13節)。しかし農夫たちは最もひどい仕打ちを主人の息子にします。虐殺したのです(14-15節)。わたしたちは十字架のイエスを、神の子、救い主・キリストと信じていますから、「愛する息子」はイエスをたとえていると思いつきます。しかし、当時の聴衆にとってはどうでしょうか。十字架で殺されることを知らない民衆や祭司長たちは、それを思いつくことはできません。直前で「ヨハネが預言者であると民衆が信じていた」ことが書かれています(6節)。この場で聞いていた人は、愛する息子の虐殺は預言者ヨハネの処刑をたとえていると理解したはずです。

「預言者ヨハネを権力者たちが殺したのだから、神はイスラエルの民を報復し、全体を滅ぼし、別の民に世界というぶどう畑を預けるのが当然ではないか」(16節)。イエスの結論は、挑戦的・扇動的です。聞いていた民衆は、「そんなことがあってはいけない」と、反発しています。黒人教会の礼拝のような掛け合いがここにあります。この神殿の境内に集まっていたユダヤ人民衆は、「選民イスラエル」というプライドを持っていました。指導者たちによるヨハネの処刑が、神の報復を招き、すべてのユダヤ人が神ご自身によって捨てられる。こんな理不尽が起こってはいけない。なぜなら民衆はヨハネを預言者として信じているからです。祭司長・律法学者・長老たちのようなサドカイ派ではありません。

イエスは民衆を優しく見つめて、別の聖句を引用して、その解釈を述べます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(17節)。この聖句は、詩編118編22節の引用です。「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(18節)。「そんなことがあってはならない」と言う民衆に対して、イエスは「そんなことが実際に起こるのだ」と答えています。

「家を建てる者」が、イスラエルを指すことは明白です。農夫から大工へ、たとえが転換させられています。大工であるイエスが語るので、真実味が増します。大工は家を建てる時に石を選ぶものです。大工が建築用に使えないとして「捨てた石」は、預言者たちのことでしょう。ヨハネまで続く迫害され殺された預言者たちです。問題は、「隅の親石」が何であり、その石に触れる者に危害が加わるということが何であるのかです。

「隅の親石」を口語訳聖書は「隅の頭石」としていました。直訳は、「隅の頭」です(ギリシャ語もヘブライ語も)。今までわたしは、隅の頭石をてっきり四隅の礎石かと思っていました。礎石は当然、建物の下にあるものです。しかしそれでは、「その石がだれかの上に落ちる」(19節)という事態の説明がつきません。そこでアーチの要石(最後にはめる石)と解釈する説も有力です。アーチは「頭(頂点)」の説明にはなります。また、上から落ちてくるかもしれない石という説明にもなります。ただし別の問題も引き起こします。アーチであるとすると、「隅」ということがらと合致しないのです。「隅の頭」は、きわめて理解困難な言葉であり「解釈の十字架」です。

「隅の頭」を建物に使われる石に違いないと思い込むと、理解が難しくなるように思います。もっとイエスのように自由な発想を持つことが必要です。

一つの解釈は、紀元後70年のユダヤ戦争にかかわるものです。大工に使いものにならないとみなされ捨てられた石は、ブーメランのように建てられた建物を壊すための石となって戻ってくるということだと解します。イメージとしては、建物に使えない石を、投石器に装填して武器に使うような感じです(19章43-44節参照)。内部告発をする預言者を外に放り出すイスラエルは、預言者迫害の罪を問う神によって打ち砕かれるということです。40年後、神はローマ軍を使ってイスラエルを滅ぼします。イエスの言葉はローマ軍による神殿徹底破壊の預言です。

もう一つの解釈もあります。それは新しいイスラエルであるキリスト教会にかかわるものです。イスラエルは預言者を社会の隅に追いやりました。しかし、それは逆効果でした。新しい思想は、隅・辺境・ガリラヤから起こります。「隅の頭」が闇の中の光として起き上がったのです。ヨハネのバプテスマ運動であり、イエスの食卓運動です。それは「石が叫びだす」という事態でもあります(19章40節)。ガリラヤの風が、竜巻となって石礫を作り出します。上下左右から石がぶつかってくる竜巻に触れる者はだれでも打ち砕かれ悔い改めに導かれます。また、ガリラヤの風を吸い込む者はだれでも聖霊の実を実行するようになります。見事な石造りの大建造物エルサレム神殿は無用の長物となります。聖霊によって生まれた教会が、世界の「隅の頭」となるのです。

教会はこの世界で中心となってはいけません。地上の権力から離れるべきです。教会は「辺境」、この世界で隅に追いやられている人々と共に立つのです。家造りらに捨てられても構わないと考えるべきです。それと同時に教会は、「頭」でなくてはいけません。この世界の価値観とは異なる視点を常にこの世界に見せて、頭角を表さなくてはいけません。この世界に埋没してはいけないのです。

いずれにせよ、この二つの解釈はどちらも歴史にかかわります。過去のイスラエルの歩みが、未来のイスラエルの歩みをどのように方向付けていくのかを、イエスは詩編118編22節を用いて論じたのです。それこそ、交流と対話がある霊的な礼拝の中でなされるべきことがらです。

今日の小さな生き方の提案は、聖書を通じて歴史を見る目を養うことです。それが礼拝の一つの役目です。わたしたちが一喜一憂するのは、歴史を神が導く逆転劇としてとらえていないからです。わたしたちが同じ過ちを繰り返すのは歴史を直視していないからです。教会は預言者たちと共に「隅の頭」となって、歴史の見方を世界に提示します。それが教会の教育的使命です。