ステファノの死 使徒言行録7章54節-8章3節 2021年4月25日礼拝説教

54 さてこれらの事々を聞いて、彼らは彼らの心で苛立った。そして彼について彼らは歯を軋らせ続けた。 55 さて聖霊に満ちて、天へと凝視しながら、彼は神の栄光と神の右側に立っているイエスとを見た。 56そして彼は言った。「見よ、私は天が開いたのを見ている。そして神の右側に立っている人の子を(見ている)」。 57さて大きな声を叫んで、彼らは彼らの耳をふさいだ。そして彼らは彼の上に同じ精神で殺到した。 

 ステファノの裁判は突然終わりました。苛立つ最高法院の議員たちが歯ぎしりの音を一斉に立てて、彼の発言を妨害したからです。彼らにとってステファノの言葉は聞くに堪えないものでした。エルサレム神殿に敬意を払っていないからです。国策に反するステファノの思想に彼らは苛立ちます。ペトロとヨハネの裁判でも彼らは苛立ちました(5章33節)。感情のコントロールができません。議員たちの行儀は非常に悪いと思います。

 ここに少し日本の議会の課題と重なるものが透けて見えます。「野次は議会の華」などと冗談交じりに是認されています。かつて日本バプテスト連盟の総会においても野次や下品な笑いがありました。本当によくないと思います。民主政治の根本は、自分の意見を表明することですが、その裏返しとして他人の意見も聞くということがなくてはなりません。耳をふさぐ行為は相手との関係を断つことを象徴しています。ステファノが話を終えざるを得なくなったことは、わたしたちも未だに克服できていない罪の実態を示しています。小さな声が響き合うためには、小さな声も圧殺せずに聞くということが重要になります。

 ステファノは天を仰ぎます。自分の声が聞かれない人は天を仰ぐしかありません。そのような人々のために天はあります。ステファノは天を仰ぎ、イエスを見ます。神の右に立っている「人の子」です。「人の子」はイエス自身が自分のことを指すときに好んで使った言葉です。そしてイエス以外の人物で、「私は」という意味で「人の子は」と言った人は同時代におりません。ステファノは生前のイエスと会ったことはありませんが、正確に言い伝えを受け入れています。彼は「人の子」であるイエスに従いたかったのです。

 「人の子」とは人類一般という意味です。イエスは全ての人との連帯感を示すために「人の子」という言葉をあえて用いました。サマリア人女性とも子どもともハンセン病患者とも徴税人とも、同じ目線で交わりをしました。あなたも人の子、わたしも人の子。あなたも神の子、わたしも神の子。これがイエスの「神の国運動」です。罪びとと言うなら全員罪びと。義人というなら全員義人。ステファノはこの福音に救われて教会に加わりました。だからさまざまな背景を持つ人々と共に礼拝をしていたのです。彼はいつも人の子イエスを目指して生きていました。だからステファノには、イエスのように聖霊が満ち溢れます。そしてまさにそれだからこそイエスと同じように処刑されていきます。

 議員たちの心は一つになりました。仲の悪かったピラトやガリラヤの領主ヘロデがイエスを殺すことでは一致したのと同じです。彼らは「石打にしろ」と叫びながら、暴力的にステファノの上に押しかぶさりました。

58 そして町の外へ放り出して、彼らは石を投げた。そして証人たちは彼らの外套をサウロという名前の若者の足のそばに置いた。 59 そして彼らはステファノに石を投げ続けた。(彼は)呼びかけて、そして曰く、「主よ、イエスよ、私の霊をあなたは受けてください」。 60 さて膝を屈めて、彼は大きな声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らにあなたは置かないでください」。そしてこれを言って、彼は眠った。

 申命記17章6-7節には、死刑判決と死刑執行の規定があります。二人以上の証人が「死刑に値する証言」をしなくては石打の刑には処されません。そして証人がまず最初の石を投げなくてはいけないのです。また、神を冒涜した人は宿営の外で石打にされたという前例があります(レビ記24章23節)。議員たちは合法的に死刑を執行しています。合法的であれば死刑の残虐性が薄まるのでしょうか。

 死刑制度そのものが抱える課題がここにあぶり出されています。確かに「私刑」よりはましです。しかし合法的であっても人殺しであることに代わりはありません。国家の名のもとにできる殺人は戦争と死刑です。憲法9条は戦争を放棄する宣言です。死刑についても放棄することが、そこから読み取れないでしょうか。イエスの十字架・ステファノの石打ちを読むたびに、戦争と死刑のない世界を夢見ます。 

 律法教師ガマリエルの弟子であるサウロという青年が突然登場します。彼は議会を傍聴していたのかもしれませんし、秘書のようにしてガマリエルの退出を待っていたのかもしれません。ファリサイ派の議員たちはサウロのことを知っていたことでしょう。ガマリエルが最初の石を投げる人だった可能性もあります。ガマリエルは弟子サウロの足元に上着を預けます。その他のファリサイ派議員たちもそれに続きます。そしてエルサレム郊外で死刑が執行されます。

 ステファノは常にイエスを見、主イエスにのみ語りかけます。神ではなく人の子イエス。救い主に集中しているのがステファノの信仰の中心です。その結果として、ステファノはイエスと同じような言葉を祈り、死んでいきます自分を殺す加害の罪を、加害者に負わせないでほしいと言うのです(ルカ23章34節)。この十字架上の言葉はルカ福音書にしかないので、明らかにルカ教会の強調点です。ルカ教会には、「殉教者たる者は殺される直前の最後の祈りにこのように祈るべきだ」という規範があったのでしょう。その典型的模範例をつくったのはステファノです。驚愕すべき実践として、この後数世紀にわたって教会で続いていくこととなります。それは「迫害する者のために祈れ」というイエスの言葉が、どんな報復攻撃よりも強い力を持っていることを証明しました。どんなに迫害しても、憎しみをもって報復しないキリスト信徒たちを前に、最強の軍事大国ローマ帝国も最終的にはキリスト教に対する「迫害」から「容認・共存」、そして「公認・強制改宗」へと舵を切っていきます。

 ステファノを美化し模範とすることは、現代的にはさまざまな課題を含んでいます。一つは靖国神社の思想と似ているということです。国家のために死ぬことを美化し戦争を維持することが靖国神社の本質です。キリストのために死ぬことを美化することが、教会を維持するためになるならば両者は似てしまいます。牧師だったわたしの祖父は、第二次大戦中に殉教したらよかったのでしょうか。戦争も思想統制もない世界を創ることの方が、殉教を勧めるよりも重要でしょう。公認・強制改宗まで突き進む時に、つまり政教一致する時に、皮肉なことにキリスト教国家も「ステファノ殺害の罪」を犯すこととなります。

 もう一つは罪の重さを薄めてしまう危険性です。「加害の罪を加害者に負わせないように」という赦しは、正義や真理というものをないがしろにしてしまいかねません。無条件の赦しというものは究極的にはイエス・キリストにしかできない祈りであると思います。この祈りを全ての信徒に義務として負わせるときに、被害者がさらに苦しめられる場合がありえます。「キリスト者なのだからどんなにひどい目に遭っても、ひどい目に遭わせている人を許さなければならない」という考え方は、被害者をさらに苦しめます。それは二次被害です。「あなたにも落ち度がある」と言っているからです。

 わたしたちは必要以上にステファノを美化しない方が良いでしょう。むしろイエスの言葉と似ているという事実に着目すべきです。イエスのみが罪の赦しを語ることができます。ステファノはただその鏡に過ぎません。殉教はイエスに従った結果なのであって、それ以外のことの手段や目的にしてはいけません。

1 さてサウロは彼を殺すことに加担し続けていた。さてその日において大きな迫害がエルサレムの中にある教会に起こった。さて全ての者はユダとサマリアの地域中に散らされた、使徒たちを除いて。 2 さてよく受け取る男性たちはステファノを葬った。そして彼らは彼について大きな嘆きをなした。 3 さてサウロは教会を壊し続けた。家ごとに入って、男性たちも女性たちも引きずり出して、牢の中へと引き渡し続けた。

小アジア半島キリキア地方の中心都市タルソ出身のサウロは、ステファノのことをよく知っていました。おそらくサウロはステファノとギリシャ語で直接議論をしたこともあるでしょう(6章9節)。しかし雄弁家ではないサウロはステファノに議論では勝てません。逆恨みをしたサウロが師匠のガマリエルを焚きつけていたかもしれません。ナザレ派のうち、国際的な視野をもつステファノやフィリポたちの「左派」グループをサウロは狙い撃ちします。ナザレ派のうち「右派(神殿容認)」である使徒たちは見逃がします。サウロはユダヤ人の律法を学ぶためにギリシャ語圏から留学してきた青年です。だからこそ生粋のユダヤ人であろうとしています。憧れのエルサレム神殿とユダヤ人男性中心主義(割礼も)を軽んじるステファノたちの主張に反対です。

サウロは頭が良くある意味で敬虔なのですがその知識の用い方において間違えていました。自分の思想のために隣人を見下し隣人を弾圧しても良いと思い込んでいました。いわゆる「東大的思考」です。「男性も女性も」逮捕し牢に入れる姿から、教会が女性たち(やもめたち含む)の活躍する場であったことが分かります。そのことにサウロが強く反発していることも推測できます。なぜユダヤ人とギリシャ人を分けないのか、男性と女性を分けないのか。サウロにとってナザレ派の左派は「異端」そのものです。

このような偏狭な姿勢で「家ごとの教会(自治体エクレーシア)」の自治を壊し続けるサウロの姿に「罪の奴隷」の典型を見ます。罪とは自己絶対化であり、自分の主張の押し付けです。それが内心のみにとどまっても、心の中で隣人を「馬鹿者」と見下せば同じです。暴力的な現れ・殺害と本質的には変わりません。対極にステファノを葬る「よく受け取る」人々がいます。ステファノと同じ日にバプテスマを受けた教会員です(2章5節)。

誰がステファノの最後の祈りを聞き取ってルカに伝えたのでしょうか。サウロその人しかいないのではないでしょうか。ここにはステファノからサウロ(パウロ)へと受け継がれた信仰があります。ステファノを通してサウロは自分がイエスを迫害し殺す罪びとであることを教えられます。ステファノを通してこの罪はイエスによってしか赦されないことを知ります。そしてステファノを通してパウロはあるべき教会の姿を教えられ、もはやギリシャ人もユダヤ人も、男性も女性もないという教会をつくっていきます。

今日の小さな生き方の提案は、自分自身の罪や暴力性に気づくことです。わたしたちもまたステファノ殺しに加担し、上着の番をしているサウロなのです。良心のアンテナを張り、良心のセンサーを作動させましょう。誰が誰に苛立っているのでしょうか。集団の中で最も小さくされている人は誰でしょうか。その人はイエスでありステファノです。加害に加担し続ける罪を止める歩みを少しずつでも始めたいと願います。